「米沢城」の版間の差分

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[[天正]]17年([[1589年]])政宗は[[蘆名義広]]を破り、[[蘆名氏]]を滅亡させると[[若松城|黒川城]](114万石)に本拠を移し、晴宗の弟にあたる[[伊達宗澄|宗澄]]ついで[[梁川宗清|宗清]]を城代に据えた。しかし、[[豊臣秀吉]]はこの会津攻略を認めず政宗から召し上げたため、翌年には本拠を米沢(72万石)に戻すことになる。天正19年([[1591年]])政宗は[[豊臣秀吉]]の命により[[岩出山城]](58万石)に移った。
 
置賜郡は伊達氏代わって[[会津]]に封ぜられた[[蒲生氏郷]]の支配するところとなり、重臣・[[蒲生郷安]]が米沢城主(7万石、蒲生家中で最大)となった<ref name="kimura" />。郷安はこの時、城の改修を行っている。[[文禄]]年中に[[白子神社 (米沢市)|白子神社]]が米沢城鎮守となる。[[慶長]]2年([[1597年]])氏郷の子、[[蒲生秀行 (侍従)|秀行]]は[[下野国]][[宇都宮市|宇都宮]]に移封となり、会津には[[越後国]]より120万石で上杉景勝が入封し、米沢城主には重臣・[[直江兼続]](6万石、与力を含め30万石とも)を置いた<ref name="kimura">木村徳衛『直江兼続伝』(私家版)、1944年、421頁。</ref>。
 
=== 江戸時代前期 ===
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慶長5年([[1600年]])秀吉の死後、[[豊臣氏]]への恩義から[[徳川家康]]の専横を「[[直江状]]」という文書によって弾劾し[[徳川氏]]への宣戦布告に及んだ。会津討伐を受けたが、家康は小山で[[石田三成]]挙兵の報に接してい引き返し、上杉軍は[[直江兼続]]を総大将として米沢城より北上し東軍[[最上氏]]を攻める。しかし、[[関ヶ原の戦い]]での西軍の敗戦により、軍を米沢城へと引き上げた。これらの戦いにより上杉氏は[[置賜地方]]と[[陸奥国]][[伊達郡]]・[[信夫郡]]30万石(実高51万石)に[[減封]]され、米沢を居城(信達(しんたつ)両郡の[[福島城]]・[[梁川城]]には本庄氏・須田氏・芋川氏などを置く)とした。以後、[[明治維新]]まで米沢藩上杉氏の居城となった<ref name="kimura" />。
 
慶長13年([[1608年]])景勝は兼続に命じ城の大改修を行い、慶長18年([[1613年]])輪郭式の縄張りを持つ城が完成した。[[本丸]]大勢内部家臣団享和2年の「松岬なお揲図」が詳しく下に収まりきれず本丸中央部に藩主城下近郊住居が建ち、原野であった原・隅の堤上[[上杉謙信]]配され、下級家臣侍町「原方」が形成されたのも米沢藩の特色であ御堂を建て<ref name="aoki" />、[[天守]]の代わりに東北と西北に三層の隅櫓(御三階)を2基置いた。他に二層櫓が複数設置された
二の丸には藩の役所、世子御殿、御堂に近侍する[[法音寺]]・[[大乗寺]]など御堂に交替で勤仕する[[真言宗]]の二一ヶ寺を置いたのが特色である<ref name="aoki" />。三の丸には上級・中級家臣の屋敷で占められ、町人町は郭外に置かれた町家郭外形の典型的な城下町プランに属する<ref name="aoki" />。[[石垣]]は少なく、[[土塁]]を多用し、全体的に質素な城となった。これは120万石時代の家臣をほとんど削減しなかったため、財政が逼迫していたことによるものとされるが、上杉景勝が会津で建設を目指していた[[神指城]]も米沢城と同様の[[曲輪|縄張]]で、土塁を多用した造りである。これは春日山城の麓にあった[[関東管領]]邸である御館にも共通した特徴であり、上杉氏の本拠地としての伝統的な城館建築の造りである。
大勢の家臣団はなお城下に収まりきれず、城下近郊の原野であった東原・南原に配され、下級家臣の侍町「原方」が形成されたのも米沢藩の特色である<ref name="aoki" />。
 
[[寛文]]4年([[1664年]])3代[[上杉綱勝|綱勝]]が嗣子を定めないまま急死し、[[上杉綱憲|綱憲]]が[[末期養子]]として認められ藩は存続したが石高は15万石(実高28万石)に半減された。しかし、石高が減ったのに、藩士の召し放ち(解雇)が行われず、藩の財政は更に逼迫することとなった。城外には新たに原方と呼ばれる地域を設置し、城下に収容できない下級藩士を配置し、半農生活を営ませた。
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[[2017年]](平成29年)[[2月11日]]から2日間、「上杉雪灯篭まつり」で、米沢[[青年会議所]]が御三階櫓を実物3分の1縮尺の雪像で再現した。
雪で土台をつくり、建物は板などで製作、真っ白な城に仕上げた。窓は米沢で開発された有機EL照明パネルを使用、LEDで[[ライトアップ]]し、カラフルに演出した<ref>山形新聞online(2017年01月16日)ほか</ref>。
 
== 構造 ==
[[本丸]]の内部は享和2年の「松岬城揲図」が詳しく、本丸中央部に藩主の住居が建ち、東南隅の堤上に[[上杉謙信]]の祀る御堂を建て<ref name="aoki" />、[[天守]]の代わりに東北と西北に三層の隅櫓(御三階)を2基置いた。他に二層櫓が複数設置された。
 
二の丸には藩の役所、世子御殿、御堂に近侍する[[法音寺]]・[[大乗寺]]など御堂に交替で勤仕する[[真言宗]]の二一ヶ寺を置いたのが特色である<ref name="aoki" />。
三の丸には上級・中級家臣の屋敷で占められ、町人町は郭外に置かれた町家郭外形の典型的な城下町プランに属する<ref name="aoki" />。
 
二の丸には藩の役所、世子御殿、御堂に近侍する[[法音寺]]・[[大乗寺]]など御堂に交替で勤仕する[[真言宗]]の二一ヶ寺を置いたのが特色である<ref name="aoki" />。三の丸には上級・中級家臣の屋敷で占められ、町人町は郭外に置かれた町家郭外形の典型的な城下町プランに属する<ref name="aoki" />。[[石垣]]は少なく、[[土塁]]を多用し、全体的に質素な城となった。これは、米沢城が敵に侵入されたり落城した経験がないことや、120万石時代の家臣をほとんど削減しなかったため、財政が逼迫していたいう説もあるが<ref>実際よるもは寛文半知時点でも、なお米沢藩には「御囲い金」され称す余剰金残っていた(「藩史大事典」「藩史物語」など)。</ref>、上杉景勝が会津で建設を目指していた[[神指城]]も米沢城と同様の[[曲輪|縄張]]で、土塁を多用した造りである。これは春日山城の麓にあった[[関東管領]]邸である御館にも共通した特徴であり、上杉氏の本拠地としての伝統的な城館建築の造りである。
 
== 支城 ==
* [[福島城]](陸奥国[[信夫郡]]) - [[寛文]]4年([[1664年]])まで。城主は本庄氏。信達統治の中心拠点であった。寛文の半知の後も天領(20万石余)や[[福島藩]](板倉氏)が居城として使用した。
* [[大森城]](陸奥国信夫郡) - 同上。[[芋川親正|芋川氏]]が入る。北側の高い場所が城主の館と推定され、主郭の南側には空堀と土塁が残る。
* [[梁川城]](陸奥国[[伊達郡]]) - 同上。城主の[[須田長義|須田氏]]による、本丸の物見櫓跡の石垣や北三の丸の高い土塁など、上杉統治時代の遺構が残る。
* [[鮎貝盛次|鮎貝城]]・ 荒砥城・ [[小国氏|小国城]]・中山城(出羽国[[置賜郡]]) - 寛文の半知以後も存続した置賜郡内の支城。以後は、[[一国一城令]]により城を「役屋」、城主・城代を「役屋将」と改称。鮎貝城址の『収蔵庫鞘殿』内には、本丸と二の丸のミニチュア復元模型あり。
* [[高畠藩|高畠城]](置賜郡) - [[寛文]]4年([[1664年]])まで。ただし、[[織田氏]]の高畠移封の後も上杉家が管理(織田氏は[[陣屋]]を築いて移る<ref>織田氏は[[明和事件]]により、準国主から[[陣屋|無城]]大名に降格されている。</ref>)。文化7年(1810年)の加増で、再び上杉家が正式に所有した。
* [[館山城 (出羽国)|館山城]](置賜郡) - 近年の発掘調査により、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[伊達氏]]の本拠地との説が出され注目されている。ただし、[[石垣]]に関しては、積み方から上杉時代のものと考えられる。城跡は国の[[史跡]]に指定されている<ref>平成28年3月1日文部科学省告示第26号</ref>。