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馬券が再禁止された[[1908年]](明治41年)秋は予定通り開催できずに競馬としては遅い時期の12月に3日間と短縮されて開催されている。[[1909年]](明治42年)春の池上競馬は開催されず、[[1908年]](明治41年)秋と[[1909年]](明治42年)秋には馬券発売は無しで開催され、競馬会の重役は報酬を辞退している<ref name="club2 86">[[#倶楽部1941-2|倶楽部1941-2]]、p. 86。</ref>。
 
[[1906年]](明治39年)当時、横浜競馬場以外では函館などで細々と競馬が行われていただけなので、池上競馬場が発足してすぐには質の高い競走馬を十分に確保出来ず池上競馬の競走馬の質は極めて雑多だったという。[[競馬番組|番組編成]]も不慣れなため適切な番組が組めたとも言えず、競走は番狂わせが多く、横浜と比較して高配当のレースが多かったという<ref name="jra1967 126-127">[[#日本中央競馬会1967|日本中央競馬会1967]]、pp. 126-127。</ref>。馬券売り上げを増やすために1日に9{{~}}10レースも組み<ref name="jra1967 126-127"/>、そのため馬は不足し多くの馬が連日出走した<ref name="club2 42-44">[[#倶楽部1941-2|倶楽部1941-2]]、pp. 42-44。</ref>。
 
池上競馬開設をバックアップした陸軍は、競馬場開設前に試乗してコースの出来上がりを確かめ、池上競馬に軍馬・騎兵将校を参加させている。陸軍は優秀な[[騎兵|騎]][[砲兵|砲兵科]]士官を選び軍服姿も凛々しく勇ましい競馬を行ったという<ref name="ooe2005 80-84,108-116">[[#大江2005|大江2005]]、pp. 80-84, 108-116。</ref>。競馬に出場した部隊は軍馬補充部、近衛騎兵連隊、騎兵第一連隊、騎兵第十三連隊、野戦砲兵第十三連隊、騎兵学校などである。軍馬・軍人は一般の競走に参加した訳ではなく、軍馬・軍人の競走が番外レースとして組まれている。