「ピョートル3世 (ロシア皇帝)」の版間の差分

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|継承形式 =
|配偶者1 =[[エカチェリーナ2世]]
|子女 =[[パーヴェル1世]]、{{仮リンク|アンナ・ペトロヴナ (1757-1759)|ru|Анна Петровна (дочь Екатерины II)|label=アンナ・ペトロヴナ}}<ref>エカチェリーナの愛人[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ]]が父親との説あり。</ref>
|王家 =[[ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家]]
|王朝 =[[ロマノフ朝|ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝]]
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1742年2月5日、13歳のペーターは[[ロシア帝国]]の首都[[サンクトペテルブルク]]に連れて来られた。
 
周囲は初めて見るピョートル大帝の孫に興味津々だったが、エリザヴェータはペーターの貧弱な体と不健康そうな顔色に驚いた。その際、エリザヴェータが「おお神よ、何という無知な子なのだ」と嘆いたというが、この「невежествоニェヴェージェストヴォ(невежество)」という言葉は古くは「無作法」を意味し、決して「知能が劣る」という意味ではない。同月、エリザヴェータの戴冠式のために共に[[モスクワ]]<ref>ロマノフ王朝の戴冠式は初代[[ミハイル・ロマノフ]]以来モスクワの[[生神女就寝大聖堂 (モスクワ)|ウスペンスキー大聖堂]]で行われるのが慣例。</ref>に赴き、5月6日の式では女帝の傍らに特別に設けられた場所に立った。ついで11月18日に[[正教]]に改宗し、'''ピョートル・フョードロヴィチ大公'''を名乗った。
しかし皇太子となり名を変えたところで、ロシアは彼にとって完全に異国であった。祖父がピョートル大帝である事以外は価値が無いかのような周囲の視線は彼の自尊心を傷つけるものだった。そんな中、ペテルブルクの[[ネフスキー大通り]]には[[ハンザ同盟]]の事務所と[[ルーテル聖ペテロ教会]]があり、ドイツ人経営の店も2ヶ所あった。14歳になった少年はその数少ない場所で故郷の言葉を聞き、不安を紛らわせていたらしい<ref name=reading>{{cite web|url=http://www.e-reading.club/chapter.php/1022984/12/Grigoryan_-_Carskie_sudby.html|title=Петр III|publisher=e-reading.club|accessdate=2019-01-21}}</ref> 。
 
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皇太子ピョートルの『奇行』の数々は、これまで専門家の間でも定説として長く語られ続けていた。しかしそれは「怠惰で知能が低い」「[[:ru:Русофобия|ルソフォビア]]([[反露]])」と印象付けるためのクーデター側による[[プロパガンダ]]である可能性が高いと、{{仮リンク|アレクサンドル・ミリニコフ|ru|Мыльников, Александр Сергеевич}}以降多くの研究者が指摘している。
上述の彼が10代で既に[[アルコール依存症]]だったという話も、彼を『惨めな酔っ払いのホルシュタイン兵士』と嘲っていた[[エカチェリーナ2世]]による作話だと考えられている<ref>エカチェリーナは1753年11月1日、モスクワのゴロヴィンスキー宮殿(現{{仮リンク|エカテリーナ宮殿 (モスクワ)|ru|Екатерининский дворец (Москва)|en|Catherine Palace (Moscow)|label=エカテリーナ宮殿}})で火災が起きた際、ピョートルの寝室から運び出された家具チェストの中はワインで一杯だったという話を自叙伝に記しているが、これも恐らく作話であろう。11月のモスクワでは室内に保存されたワインは凍るのである。ワインは地下のワインセラーで温度管理される事をエカチェリーナは知らなかったと思われる。</ref>。ピョートルの最も身近で彼を良く知っていた養育係シュテリン(1785年没)は回顧録を残す際、保身に走り真実を著さなかったのである<ref>{{cite web|url=https://histrf.ru/lyuboznatelnim/history-delusions/b/pietr-iii-byl-poloumnym|title=Петр ΙΙΙ был полоумным|date=2014-09-07|publisher=История России|accessdate=2019-02-11}}</ref>。
 
=== 結婚 ===
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ピョートルの「神話」は数多いが、中でも軍事に関するエピソードは特によく知られている。彼は銃弾が飛び交う本物の戦場はもとより、射撃の音や大砲の発射音も怖れていた、などといった嘲笑的なものである<ref>{{cite web|url=http://historythings.com/historys-nutcases-peter-iii-of-russia/|title=History’s Nutcases: Czar Peter III of RussiaI|publisher=History Things|accessdate=2019-01-15}}</ref>。エカチェリーナの回想録によると、ピョートルは夜のプライベートな時間も玩具の部隊を使った戦争のゲームに熱中していたという。彼はベッドの中と下に沢山の兵隊のフィギュアを隠しており、夕食の後、真っ先にベッドに入って寝ているが、エカチェリーナがベッドに入り、侍従が扉の鍵を掛けると同時に起き出して、フィギュアで遊び始めた。木、蝋、鉛で出来た様々なフィギュアは動いたり音が出たりするようピョートルが手を加えていて、中には大きく危険な物もあった。それらを使って夜中の1時や2時まで遊ぶのがピョートルの何よりの楽しみだった。ある晩、時間を掛けてそれらを並べ終わった時にネズミが現れ、兵隊の頭を齧った。ピョートルはそのネズミを捕らえて軍事裁判にかけ、死刑を宣告、専用に作った絞首台で処刑し、テーブルの上に吊るして3日間晒しものにしたという。しかしこのエピソードは誇張されているか作り話である。何故ならネズミは体の構造上、人間のように首を吊ってぶら下げる事は出来ないからだ<ref name=s.petersburg.com>{{cite web|url=http://www.saint-petersburg.com/royal-family/peter-iii/|title=Peter III|publisher=SAINT-PETERSBURG.COM|accessdate=2019-01-15}}</ref><ref name=reading/>。
 
1751年、養父後見役だったアドルフ・フレドリクがスウェーデンの王座についた。知らせを聞いたピョートルはこう言った。「彼らは私をこの忌々しいロシアに引きずり込んだ、ここでは私は国家の囚人の様なものだが、私の自由にさせてもらえるなら、文明化されたロシア国民の王座につく事になるだろう」。
 
ピョートルは音楽への情熱を持ち続けていた。彼はエリザヴェータに隠れてプロのイタリア人ヴァイオリニストから指導を受けていた。エリザヴェータにとって音楽家は「賤業」であり、皇位継承者がそのような真似をするなど以ての外であった。一方、当時のロシアの宮廷では、音楽は専らイタリアから招聘した音楽家に頼っていた。歌曲をロシア語で歌える歌手もいなかった。[[バラライカ]]だけがロシア人による演奏であった。ピョートルはこの状況を良しとせず、オラニエンバウムの宮殿内にペテルブルクで最初のオペラ劇場と音楽学校を造った。クレモナ、アマティ、シュタイナーといった良質な楽器を取り寄せ、中流階級の才能のある子供を集め、ピョートル自らヴァイオリンの指導をすることもあった。彼の教え子の中に、後に18世紀ロシア最高のヴァイオリニストとなる[[イワン・ハンドシキン]]がいた。冬の間は週に一度、午後4時から9時までコンサートが開かれた。宮殿内の劇場は[[マクシム・ベレゾフスキー]]の初舞台となった。ピョートルの尽力によってロシアの音楽文化は発展の端緒についたのである<ref name=inna/>。
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</ref>。しかしこの話は後世に「<ins>火事見物が趣味の</ins>ピョートルが現場に釘付けになっている間に」と歪めて伝えられる事になる。また、エカチェリーナの妊娠出産をピョートルは知っていたという説もある。たとえ不義の子であっても皇位継承権があるため、ピョートルはエカチェリーナとの離婚を急いだというのだ。
 
[[エヴドキヤ・ロプーヒナ|正妻]][[修道院]]に幽閉して[[エカチェリーナ1世|愛人]]と再婚したピョートル大帝に倣い、ピョートルはエカチェリーナを修道院に入れ愛人のヴォロンツォヴァと再婚する意思を公言し始めた。決意を表明するかのように6月20日、プロイセンとの攻守同盟締結の祝賀会で、后妃の証と言って良い{{仮リンク|聖エカテリーナ勲章|en|Order of Saint Catherine|ru|Орден Святой Екатерины}} <ref>{{cite web|url=https://jp.rbth.com/articles/2012/12/07/40335|title=ピョートル1世が妻のために聖エカテリーナ勲章を創設|date=2012-12-07|publisher=RUSSIA BEYOND|accessdate=2019-01-25}}
 
正妻を修道院に幽閉して愛人と再婚したピョートル大帝に倣い、ピョートルはエカチェリーナを修道院に入れ愛人のヴォロンツォヴァと再婚する意思を公言し始めた。決意を表明するかのように6月20日、プロイセンとの攻守同盟締結の祝賀会で、后妃の証と言って良い{{仮リンク|聖エカテリーナ勲章|en|Order of Saint Catherine|ru|Орден Святой Екатерины}} <ref>{{cite web|url=https://jp.rbth.com/articles/2012/12/07/40335|title=ピョートル1世が妻のために聖エカテリーナ勲章を創設|date=2012-12-07|publisher=RUSSIA BEYOND|accessdate=2019-01-25}}
</ref>をヴォロンツォヴァに与えた。さらに、冬宮殿の私室の隣にヴォロンツォヴァの居室を設けた。
 
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ともあれ、エカチェリーナの命令で遺体は[[病理解剖|剖検]]され、重度の心機能不全、腸炎、脳卒中の徴候が認められた。毒殺が疑われたが、胃壁に異常は無かった。生前に頭痛を訴えていたことから、死亡原因は脳卒中、つまり自然死であるとする見方も現在では一定の支持を得ている<ref name=vidania/>。
 
殺害説をとる研究者の中にはニキータ・パーニンが関わっていると主張する者もいる。彼はパーヴェルの養育係であり、正統な後継者はロマノフの血を引くパーヴェル以外にあり得ないとの信念の下、エカチェリーナの即位には反対で、なおかつオルロフ家の台頭を苦々しく思っていた。エカチェリーナが愛人の一族と組んでピョートル3世を謀殺したとなれば、その玉座は血にまみれているのだ。ピョートルが斃れ、エカチェリーナとオルロフ家にスキャンダラスな汚名を着せ、エカチェリーナ即位の正当性を損ねる事が出来れば、パーニンにとっては願ったり叶ったりという訳である<ref name=statehistory/>。
 
しかし実際にエカチェリーナがピョートルの暗殺を命令したかと言えば、これは研究者全てが否定していると言って良い。近衛連隊が再びピョートルを担ぎ出してエカチェリーナに攻撃を仕掛けてくる可能性は皆無に近く、しかも、シュリッセリブルクの監獄内ではまだ[[イヴァン6世]](21歳)が生きていた。『'''夫殺しの皇位簒奪者'''』という不名誉が終生付き纏う命令をエカチェリーナが出すとは考えにくい。実際、ピョートルの死でむしろ不利益を被ったと言える。息子パーヴェルとの親子関係が修復不可能なまでに悪化してしまったのもその一つであろう。ピョートルの死を知らされたエカチェリーナは「私の名誉は地に落ちた!子孫はこの無意味な犯罪を絶対に許さないだろう」と嘆いたと伝えられている。エカチェリーナに落ち度があるとすれば、ピョートルに手出しせぬよう、危険を予測して先に命令を出しておかなかった事であろう
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3日間の[[パニヒダ]]の後、21日にピョートルの棺は[[イコノスタシス]]の王門の真向かい、『娘』アンナ・ペトロヴナの墓の背後に埋葬された<ref name=paradox/>。エカチェリーナはニキータ・パーニンの諫言で体調不良を理由に葬儀に列席しなかった。エカチェリーナはその後、オラニエンバウムのピョートルの劇場も音楽学校も閉鎖した。
 
ピョートルが尊敬していたフリードリヒ2世は「子供がベッドに連れて行かれるように、皇帝の座から降ろされた」と評した。ピョートルは生涯を通して、権力闘争に備えていなかった。
 
ピョートルの不可解な死はこの後、民衆の間で根強い生存説を呼び、僭称者がロシア国内だけで40人以上も出現したと記録されている<ref>ピョートルの僭称者は国外にも現れ、その中の1人{{仮リンク|ステファン・マリ|ru|Стефан Малый|en|Šćepan Mali}}は[[モンテネグロ]]の王となった。</ref>。最後の僭称者が逮捕されたのは彼の死から35年後の1797年だった<ref name=russian7/><ref name=Preobrazhenie/>。
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== 登場する作品 ==
*女帝エカテリーナ(原題 Catherine la Grande) - [[1977年]]、[[アンリ・トロワイヤ]]による伝記。邦訳[[工藤庸子]](1980([[1980]])。[[池田理代子]]による劇画版(1982([[1982]])もある。
*{{仮リンク|ミハイル・ロモノーソフ (映画)|ru|Михайло Ломоносов (фильм, 1986)|label=ミハイル・ロモノーソフ}} - [[1986年]]、[[モスフィルム]]の映画。ピョートル役は{{仮リンク|ボリス・プロトニコフ|ru|Плотников, Борис Григорьевич|en|Boris Plotnikov}}
*{{仮リンク|ヤング・キャサリン|en|Young Catherine}} - [[1991年]]、[[ターナー・ネットワーク・テレビジョン]]制作の英ドラマ。{{仮リンク|リース・ディンズデール|en|Reece Dinsdale}}