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旧イタリア王国(北イタリア)は15世紀中葉の時点で多くの国家に分裂していた。既にふれたジェノヴァとヴェネツィアだけでなく、比較的大きな[[サヴォイア公国]]・[[ミラノ公国]]・[[フィレンツェ共和国]]・[[シエーナ共和国]]や、ウルビーノを例とする幾つかの公領と[[モンフェッラート侯国|モンフェッラート]]を例とする幾つかの侯国ができていた<ref>『イタリア史』 242頁</ref>。1454年[[ローディの和]]がイタリアの大同団結を実現させ、また[[カピチュレーション]]の草分けとなった。しかし[[メディチ家]]独裁体制が崩壊すると、[[スペイン帝国]]が興隆したところへ[[イタリア戦争]]が起こり、ジェノヴァがついに[[クリミア半島]]から撤退した。1494年から翌年にかけて、[[ボルジア家]]の教皇[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]がフランスの[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]にさまざまな譲歩を強いられた。1505年[[フランチェスコ・デ・タシス1世]]が[[郵便]]事業を開拓した。
 
1527年、神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]がローマを略奪、メディチ家をフィレンツェから追放したうえ、教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]を監禁した<ref>『イタリア史』 247頁</ref>。1529年、カールは[[第一次ウィーン包囲]]を目前に教皇と和し、[[ナポリ王国]]をわがものとする代わりにメディチ家の復帰を約束した。翌年にかけてカールは[[ボローニャ]]へイタリア諸国の代表者を集めて領土問題に決定をくだしてゆき<ref>『イタリア史』 248頁</ref>、最終的に1559年[[カトー・カンブレジ条約]]でイタリアに対する自己の覇権を認めさせた<ref>『イタリア史』 250頁</ref>。その4年前、カールは息子の[[フェリペ2世]]にミラノ公国を譲っていた<ref>『イタリア史』 249頁</ref>。イタリア政策の要衝であったミラノがスペイン王に帰属したのは[[宗教改革]]への対抗であった。北側ミラノ・ヴェネツィアと南側フィレンツェ([[トスカーナ大公国]])の間に、[[パルマ公国]]・[[モデナ公国]]・[[マントヴァ公国]]・[[フェラーラ公国]]・[[サンマリノ共和国]]ができていた<ref>『イタリア史』 251頁</ref>。ミラノは北で[[スイス]]に接した。ジェノヴァとフィレンツェはスペイン国債を大量に引受けた<ref>『イタリア史』 252頁</ref>。
 
=== イタリア再分割 ===