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[[皇族|皇親]]勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する[[藤原四兄弟]]の[[陰謀]]といわれる'''長屋王の変'''で[[自殺]]した。
 
 
__TOC__{{-}}
== 出自 ==
[[大宝律令|大宝選任令]]の[[蔭位|蔭叙]]年齢規定によって[[大宝 (日本)|大宝]]4年([[704年]])の初叙時の年齢を21歳として[[天武天皇]]13年([[684年]])誕生説が有力であったが<ref>川崎庸之「長屋王時代」『記紀万葉の世界』東京大学出版会、1982</ref>、『[[懐風藻]]』の記事にある[[享年]]54歳に基づき天武天皇5年([[676年]])とする説もある<ref>木本好信「長屋王の年齢」『大伴旅人・家持とその時代』おうふう、1993年</ref>。父は[[天武天皇]]の長男の[[高市皇子]]、母は[[天智天皇]]の皇女の[[御名部皇女]]([[元明天皇]]の同母姉)であり、皇親として[[嫡流]]に非常に近い存在であった。
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=== 長屋王政権 ===
[[養老]]4年([[720年]])8月に藤原不比等が薨去すると、翌養老5年([[721年]])正月に長屋王は[[従二位]]・[[右大臣]]に叙任されて政界の主導者となる。なお、不比等の子である[[藤原四兄弟]]([[藤原武智麻呂|武智麻呂]]、[[藤原房前|房前]]、[[藤原宇合|宇合]]、[[藤原麻呂|麻呂]])はまだ若く、[[議政官]]は[[中納言]]としてようやく議政官に列したばかりの武智麻呂と[[参議]]の房前のみであったため、長屋王は[[知太政官事]]・[[舎人親王]]とともに[[皇親政治|皇親勢力]]で[[藤原氏]]を圧倒した。長屋王は政権を握ると、和銅年間から顕著になってきていた[[公民]]の貧窮化や徭役忌避への対策を通じて、社会の安定化と[[律令制]]維持を図るという、不比等の政治路線を踏襲する施策を打ち出す<ref name="m1993-167" />。
* 養老5年(721([[721]])3月:[[水害]]と[[干魃]]に起因する貧窮対策として、[[平城京]]および[[畿内]]の公民に対して1年間の[[租庸調#調|調]]を免除し、他の[[七道]]諸国の公民に対しても同様に[[夫役]]を免除する<ref>『続日本紀』養老5年3月7日条</ref>。
* 養老5年(721年)6月:前年度発生した[[隼人]]や[[蝦夷]]の反乱鎮圧のための[[兵役]]の負荷軽減対策として、[[陸奥国|陸奥]]と[[九州|筑紫]]の公民に対して1年間の調・[[租庸調#庸|庸]]を免除する。戦場で死亡した者は、その父子ともに1年間の[[租税]]を免除する<ref>『続日本紀』養老5年6月10日条</ref>。
* 養老6年(722([[722]])2月:[[五衛府|諸衛府]]の[[衛士]]の役務期間が長すぎて逃亡が相次いでいたことから、勤務年限を3年とし必ず交替させる<ref>『続日本紀』養老6年2月23日条</ref>。
* 養老6年(722年)閏4月:[[陸奥按察使]]管内の公民の調・庸を徐々に免除して、[[農耕]]と[[養蚕]]を勧奨して、[[乗馬|馬]]と[[弓術|弓]]を習得させる。辺境を助けるための租税として[[麻布]]を徴収することとし、蝦夷に与える[[禄]]に充当する。陸奥国出身で[[朝廷]]に仕えている者(衛士・資人・[[采女]]など)は全員本国に帰国させてそれぞれの地位に戻す<ref name="sg-y60425">『続日本紀』養老6年閏4月25日条</ref>。
* 養老7年(723([[723]])4月:[[日向国|日向]]・[[大隅国|大隅]]・[[薩摩国|薩摩]]の各国は兵役の負荷が重く、兵役の後に[[飢饉]]や[[疫病]]が発生していることから、3年間租税を免除する<ref>『続日本紀』養老7年4月8日条</ref>。
また、長屋王政権における重要な民政策として開田策がある<ref name="m1993-165">森田[1993: 165]</ref>。
* 養老6年(722年)閏4月:秋の[[収穫]]後に10日を限度として人民を[[賦役]]させ、官粮や官の調度を活用して、諸司の裁量のもとで[[田地|良田]]100万町歩の[[開墾]]を進めることとし、故意に開墾を進めない場合は[[官職]]を解任する([[百万町歩開墾計画]])<ref name="sg-y60425" />。
* 養老7年(723年)4月:人口の増加に伴う[[口分田]]の不足に対応するために、田地の開墾を奨励することとし、新たに田地を開墾した場合は三代目まで、田地を手入れして耕作できるようにした場合は本人の代のみ、それぞれ田地の所有を認める([[三世一身法]])<ref>『続日本紀』養老7年4月17日条</ref>。
この頃、律令制支配の浸透によって蝦夷や隼人では反乱が頻発していたが、長屋王は朝廷の最高責任者として機敏な対処を行い、速やかな反乱の鎮圧を実現している<ref name="m1993-164">森田[1993: 164]</ref>。
* 養老4年(720([[720]])9月:蝦夷の反乱により陸奥按察使・[[上毛野広人]]が[[殺害]]されると<ref>『続日本紀』養老4年9月28日条</ref>、連絡を受けた翌日には鎮圧に向けて遠征させるために持節征夷将軍・[[多治比県守]]と持節鎮狄将軍・[[阿倍駿河]]らに節刀を授けた<ref>『続日本紀』養老4年9月29日条</ref>。
* 神亀元年([[724年]])3月:海道の蝦夷の反乱により陸奥大掾・[[佐伯児屋麻呂]]が殺害されると<ref>『続日本紀』神亀元年3月25日条</ref>、1ヶ月ほどの間に征討軍として[[藤原宇合]]を持節大将軍、[[高橋安麻呂]]を副将軍に任じ<ref>『続日本紀』神亀元年4月7日条</ref>、さらに[[坂東]]九ヶ国の兵士3万人に軍事訓練を行った<ref>『続日本紀』神亀元年4月14日条</ref>。
長屋王政権における政策の特色として、上述のような律令制の維持を目的とした公民に対する撫育・救恤策のほかに、[[官人]]に対する統制強化・綱紀粛正策も実施されている<ref>木本[2003: 8]</ref>。
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=== 長屋王の変 ===
[[File:20160804 Tomb of Prince Nagaya.jpg|thumb|250px|長屋王墓([[奈良県]][[生駒郡]][[平群町]])]]
養老5年([[721年]])11月に[[元明天皇|元明上皇]]が死の床で、[[右大臣]]・長屋王と参議・[[藤原房前]]を召し入れて後事を託し、さらに房前を[[内臣]]に任じて元正天皇の補佐を命じる<ref>『続日本紀』養老5年10月13日条</ref>。こうして、外廷(太政官)を長屋王が主導し、内廷を藤原房前が補佐していく政治体制となる<ref name="km">木本好信「藤原麻呂の前半生について-長屋王の変前夜まで-」『甲子園短期大学紀要』No.28</ref>。同年12月に元明上皇は[[崩御]]するが<ref>『[[続日本紀]]』養老5年12月7日条</ref>、これにより政治が不安定化していたらしく、翌養老6年([[722年]])正月には[[多治比三宅麻呂]]が[[謀反]][[誣告]]を、[[穂積老]]が天皇を名指して非難を行い、それぞれ[[流罪]]に処せられる事件が発生する<ref>『続日本紀』養老6年正月20日条</ref>。この事件は評価が分かれるが、長屋王に対する不満や反感がこの事件に繋がったとする考えがある<ref name="km" />。
 
[[神亀]]元年([[724年]])2月に[[聖武天皇]]の[[即位]]と同時に長屋王は[[正二位]]・[[左大臣]]に進む。間もなく聖武天皇は生母である[[藤原宮子]](藤原不比等の娘)を尊んで「大夫人」と称する旨の勅を発する<ref>『続日本紀』神亀元年2月6日条</ref>。しかし、3月になって長屋王らは公式令によれば「皇太夫人」と称すべきこと、勅によって「大夫人」を用いれば違令となり、公式令によって「皇太夫人」を用いれば違勅になる旨の[[上奏]]を行った。これに対して天皇は先の勅を撤回し、文章上は「皇太夫人」を、口頭では「大御祖」と呼称するとの詔を出して事態を収拾した([[辛巳事件]])<ref>『続日本紀』神亀元年3月22日条</ref>。この事件をきっかけとして長屋王と[[藤原四兄弟]]との政治的な対立が露になってゆく。
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一方で、皇位継承権の埒外である藤原長娥子と所生の諸王([[安宿王]]ら)には全く咎めはなかった。また、変に[[連座]]して罰せられた[[官人]]は[[外位|外]][[従五位|従五位下]]・上毛野宿奈麻呂ら微官の7名に過ぎず、皇親勢力の大物である舎人・[[新田部親王|新田部]]両親王が長屋王を糾弾する側に回るなど、長屋王が政権を握る中で藤原四兄弟に対抗できる勢力を構築できていなかったことは明白であった<ref name="m1993-160">森田[1993: 160]</ref>。また、前述の神亀4年([[727年]])に行われた官人に対する統制強化・綱紀粛正策が、王自身に対してのみ手厚く、その他の官人に対しては冷淡な、自己本位的・独善的な面があり、多くの官人の不満を生んだとする見方もある<ref>木本[2003: 15]</ref>。
 
長屋王の自殺後、藤原四兄弟は妹で[[聖武天皇]]の[[夫人]]であった光明子を[[皇后]]に立て、藤原四子政権を樹立する。しかし、天平9年([[737年]])に[[天然痘]]により4人とも揃って病死してしまったことから、長屋王を自殺に追い込んだ[[祟り]]ではないかと噂されたという<ref>それを明言した同時代史料はないが、同年10月20日に長屋王の遺児・[[安宿王]]、[[黄文王]]らに不定期の[[叙位]]があったのはその傍証とされる。</ref>。なお、『[[続日本紀]]』によると、翌天平10年([[738年]])長屋王を「誣告」し恩賞を得ていた[[中臣宮処東人]]が、かつて長屋王に仕えていた[[大伴子虫]]により斬殺されてしまう。『続日本紀』に「[[虚偽告訴罪|誣告]]」と記載されていることから、同書が成立した[[平安時代]]初期の[[朝廷#日本の朝廷|朝廷]]内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている<ref>[[青木和夫]]『日本の歴史 3 奈良の都』、[[中公文庫]]、[[1973年]]、286頁</ref>。
 
; 事件で処罰または死亡した人物
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[[昭和]]61年([[1986年]])から[[平成]]元年([[1989年]])にかけて、[[奈良市]]二条大路南の[[奈良そごう|そごう]]デパート建設予定地で[[奈良文化財研究所]]による[[発掘調査]]が行われ、昭和63年([[1988年]])には[[奈良時代]]の[[貴族]]邸宅址が大量の[[木簡]]群(長屋王家木簡)とともに発見され、長屋王邸と判明した<ref>ただし、この邸宅について本来は吉備内親王及びその姉の氷高内親王([[元正天皇]])の邸宅であり、氷高の[[即位]]及び吉備と長屋王の婚姻によって長屋王も居住するようになった「吉備内親王邸」であるとする[[森田悌]]及び作家の[[永井路子]]による異説もある。</ref>。
 
長屋王邸は[[平城宮]]の東南角に隣接する高級住宅街に位置し、二条大路に面し、南は曲水苑池の庭である平城京の左京三条二坊跡庭園と向かい合っている。約30,000m<sup>2</sup>を占めていた<ref>邸宅の総面積は6万m²(4[[町 (単位)|町]]近く、約400m四方)に達する。参考・『詳説 日本史図録』 [[山川出版社]] (第5版)2011年 p.51</ref>。出土した4万点に及ぶ木簡の中から、「長屋親王」の文字が入った木簡が発見され、長屋王の邸宅であったことが判明した。また、奈良時代の貴族生活を知る貴重な遺産ともなったが、地元や研究者の反対にも関わらず遺構の多くは建設により破壊され[[イトーヨーカドー奈良店]]として利用されていたが2017年に閉店し、翌[[2018年]][[4月]]に[[ミ・ナーラ]]としてリニューアルした。現在は敷地の一角に記念碑が設けられているのみである。
 
== 逸話 ==
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== 官歴 ==
注記のないものは『[[続日本紀]]』による。
 
* [[大宝 (日本)|大宝]]4年([[704年]]) 正月7日:[[正四位|正四位上]]([[蔭位|直叙]])
* [[和銅]]2年([[709年]]) 11月1日:[[従三位]]<ref name="kb">『公卿補任』</ref>。11月2日:[[宮内省|宮内卿]]
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* 母:[[御名部皇女]]
* [[妃]]:[[吉備内親王]] - [[草壁皇子]]と[[元明天皇]]の娘
** 男子:[[膳夫王]](? - 729) - 子孫は登美氏
** 男子:[[桑田王]](? - 729) - 子孫は[[高階氏]](母は石川夫人との説あり)
** 男子:[[葛木王]](? - 729)
** 男子:[[鉤取王]](? - 729)
* 妃:[[藤原長娥子]] - [[藤原不比等]]の娘
** 男子:[[安宿王]] - [[橘奈良麻呂の乱]]により[[佐渡島]]へ[[流罪]]
** 男子:[[黄文王]]( ? - 757) - [[橘奈良麻呂の乱]]により獄死
** 男子:[[藤原弟貞|山背王]](? - 763)
** 女子:[[教勝]]
* 妃:安倍大刀自 - [[阿倍広庭]]の娘<ref>[[大山誠一]]『長屋王家木簡と奈良朝政治史』[[吉川弘文館]][[1993年]]</ref>
** 女子:[[賀茂女王]]
* 妃:石川夫人
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** 男子:朝妻王<ref name="si" />
** 女子:[[智努女王]]<ref name="si" />
** 女子:[[円方女王]]<ref name="si" />(? - 775)
** 女子:忍海女王<ref name="si" />
** 女子:紀女王<ref name="si" />
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* [[寺崎保広]]『長屋王』([[吉川弘文館]]人物叢書、[[1999年]]) ISBN 978-4-642-05214-6
* [[森田悌]]『王朝政治と在地社会』「Ⅰ.長屋王と木簡」 ([[吉川弘文館]]、[[2005年]]) ISBN 978-4-642-02443-3
* 森田悌「長屋王の治政 : 初期律令国家理解への一視角(六)」『教科教育研究』[[金沢大学]][[1993年]]
* [[木本好信]]『藤原四子』[[ミネルヴァ書房]][[2013年]]
* 木本好信『奈良時代の人びとと政争』おうふう、[[2003年]]
* [[塩入秀敏]] 「[http://ci.nii.ac.jp/naid/110001041655 長屋王王子山背王(藤原弟貞)について : 奈良時代皇親貴族の一つの生き方]」『紀要』26号、[[上田女子短期大学]][[2003年]]
 
== 関連項目 ==
* [[歴史書一覧]]
* [[ミ・ナーラ]]
 
 
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:なかやおう}}
[[Category:日本の王 (皇族)]]