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[[ファイル:Nanshuji garden.jpg|thumb|260px|織部作と伝わる[[南宗寺]]庭園(国の[[名勝]])]]
 
'''古田 重然'''(ふるた しげなり{{Sfn|桑田|1990|p=15}})は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]、[[大名]]、[[茶人]]。[[千利休]]とともに[[茶道|茶の湯]]を大成し、[[茶器]]・会席具製作・[[建築]]・作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にもたらした。
 
== 名前 ==
一般的には[[茶道|茶人]]・'''古田 織部'''(ふるた おりべ)として知られる。「織部」の名は、壮年期に従五位下「[[織部司|織部助]]」の[[官位]]に叙任されたことに由来している。「織部正」は自称と考えられている。『[[断家譜]]』、『[[系図纂要]]』においては、重然(しげなり)。初名は景安(かげやす)。また手紙には古織部、古田織部、古田織部助、古田宗屋と自署した。
 
== 生涯 ==
=== 武将・重然 ===
[[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])、[[美濃国]]の[[国人]]・[[古田重安]]の弟・[[古田重定|古田勘阿弥(重定)]]([[還俗]]し[[主膳]]重定と改名したという)の子として生まれ<ref>『[[大徳寺|竜宝山大徳寺]]誌』</ref>{{Efn|尾張国出身説もある。}}、後に伯父・重安の[[養子]]となったという。家紋は三引両。『古田家譜』{{Efn|重然の女系の子孫が所蔵。}}に勘阿弥は「茶道の達人也」と記されていることから、重然も父の薫陶を受け武将としての経歴を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長したと推測される{{Sfn|桑田|1990|p=17}}。しかし、[[松屋久重]]編の「茶道四祖伝書」では[[佐久間信栄|佐久間不干斎(信栄)]]からの伝聞として「織部は初めは茶の湯が大嫌いであったが、[[中川清秀]]にそそのかされて上々の[[数寄者]]になった」と記されていることや、重然の名が茶会記に初めて記録されるのが[[天正]]11年([[1583年]])の重然40歳の時とかなり遅いことから、若い頃は茶の湯に興味がなかったとする説がある{{Sfn|矢部|1999|p=17}}。また[[浅野幸長]]とのやり取りをまとめた「茶道長問織答抄」では、「どうして茶の湯に関わっているのだろうか。寒い大坂に行くのも伺候するのも茶の湯のせいだ」と答えている。
 
古田氏は元々美濃国の[[守護大名]][[土岐氏]]に仕えていたが、[[永禄]]9年([[1567年]])、[[織田信長]]の美濃進駐と共にその家臣として仕え、重然は[[使番]]を務めた<ref>『古田家譜』</ref>。翌年の信長の上洛に従軍し、[[摂津国|摂津]]攻略に参加したことが記録に残っている。永禄11年([[1569年]])に摂津[[茨木城]]主・中川清秀の妹・仙と結婚<ref>『古田家譜』『[[豊後国|豊後]][[岡藩]]中川家譜』</ref>。
 
天正4年([[1576年]])には[[山城国]][[乙訓郡]]上久世荘(現在の[[京都市]][[南区 (京都市)|南区]])の代官となった。天正6年([[1578年]])7月、[[織田信忠]]の[[播磨国|播磨]]神谷城攻めに使番として手柄を立て、同年11月に[[荒木村重]]が謀反([[有岡城の戦い]])を起こした際には、義兄の清秀を織田方に引き戻すのに成功する<ref>『[[信長公記]]』より。</ref>。その後も羽柴秀吉(後の[[豊臣秀吉]])の[[播磨国|播磨]]攻めや、[[明智光秀]]の[[丹波国|丹波]]攻め([[黒井城の戦い]]など)、[[甲州征伐]]に清秀と共に従軍し、禄高は300貫<ref>「山城国上久世荘御年貢米御算用状」[[京都府立総合資料館#国指定文化財|東寺百合文書]]」収録</ref>と少ないながらも武将として活動している。
 
信長死後は秀吉に仕え、[[山崎の戦い]]の前に中川清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせたという逸話<ref>『烈公間話』</ref>が残る。天正11年([[1583年]])正月に[[伊勢国|伊勢]][[亀山城 (伊勢国)|亀山城]]の[[滝川一益]]を攻め、同年4月の[[賤ヶ岳の戦い]]でも軍功をあげる。この時、清秀が戦死したため重然は清秀の長男・[[中川秀政|秀政]]の後見役となり、翌年の[[小牧・長久手の戦い]]や天正13年([[1585年]])の[[紀州征伐#秀吉の紀州攻め|紀州征伐]]、[[四国平定]]にも秀政と共に出陣している{{Sfn|桑田|1990|p=27}}。
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慶長5年([[1600年]])9月の[[関ヶ原の戦い]]では東軍に与した。
 
この時期の重然は茶の湯を通じて[[朝廷]]・[[貴族]]・[[寺社]]・[[経済界]]と様々なつながりを持ち、全国の大名に多大な影響を与える存在であり、太閤秀吉の数寄の和尚(筆頭茶堂)、次いで二代将軍・[[徳川秀忠]]の茶の湯指南役にも抜擢されている。
 
=== 最期 ===
{{出典の明記|section=1|date=2017年4月}}
慶長20年([[1615年]])、[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]の折りに重然の重臣である[[木村宗喜]]が[[豊臣氏]]に内通して京への放火を企んだとされる疑いで[[京都所司代]]の[[板倉勝重]]に捕らえられた。重然も冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており、徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせた<ref>『続武家閑談』</ref>などの嫌疑をかけられ、大坂落城後の[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]([[7月6日]])に[[切腹]]を命じられた。重然はこれに対し、一言も釈明せずに[[自殺|自害]]したといわれる。[[享年]]73。宗喜も処刑されている。12月に子の重広{{Efn|name="oribe"}}も江戸で[[斬首刑|斬首]]され(『断家譜』)、古田家は断絶した。重然は大徳寺玉林庵に葬られたが、現在の[[墓地]]は三玄院の墓域となっている。
 
茶の湯の師である千利休同様、江戸幕府の意向を無視することが少なくなく、その影響力を幕府から危険視されていたことが背景にあったと考えられている。
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== 関連施設 ==
 
* 岐阜県[[本巣市]]の「[[道の駅織部の里もとす]]」には「織部展示館」が併設されている。また、[[道の駅]]に隣接して[[樽見鉄道]]の[[織部駅]]が存在する。
* [[愛知県]][[名古屋市]]の[[名古屋城]]御深井丸の茶席施設に古田織部を顕彰するため昭和30年([[1955年]])に建立された「織部堂」という茶室が存在する(利用には事前の申し込みが必要)。
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== 織部を題材にした作品 ==
*『[[へうげもの]]』
*:織部を主人公とした[[山田芳裕]]の[[漫画]]、およびそれを原案とした[[テレビアニメ]]
*『古田織部―乱世を駆け抜けた生涯』<ref>{{Jコミ|65491|古田織部}}(外部リンク)</ref>
*:構成里中満智子、作画村野守美の漫画。ISBN 4889916717、{{ISBN|978-4889916713}}。
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* [[加藤剛]] - 映画『[[千利休 本覺坊遺文]]』(1989)、[[熊井啓]]監督、原作は[[井上靖]]『本覚坊遺文』
* [[仲代達矢]] - 映画『[[豪姫]]』(1992)、[[勅使河原宏]]監督、原作は[[富士正晴]]
* [[大倉孝二]] - TVテレビアニメ『[[へうげもの]]』(2011年4月-2012年1月)
* [[古澤巌]] - NHK大河ドラマ『[[江〜姫たちの戦国〜]]』(2011年)第二十四回
 
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{{Commonscat|Furuta Oribe}}
* [[織部焼]]
* [[織部流]]
* [[古田織部美術館]] - 京都市北区にある織部ゆかりの茶道具を展示する美術館。
* [[オリベプロジェクト]] - [[岐阜県]]が創造的活動を行った重然の精神に基づき推進する政策。
* [[おりべネットワーク]] - 多治見市を中心に展開する[[ケーブルテレビ局]]。
* [[織部賞]]
* [[古田重勝]] - 一族といわれるが、重然と混同されることも多かった大名。
 
{{Normdaten}}