「マルティン・ルター」の版間の差分

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この煉獄の霊魂の贖宥の可否については[[カトリック教会]]内でも議論が絶えず、疑問視する神学者も多かった。[[1517年]][[10月31日]]、ルターはアルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送った<ref>[[徳善義和]]著『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』(岩波新書、2012年)p.61</ref>これこそが『[[95ヶ条の論題]]』である。論題が一般庶民には読めない[[ラテン語]]で書かれていたことから、ルターがこれを純粋に神学的な問題として考えていたとされる。
 
*[[{{seealso|レオ10世による贖宥状]]も参照。}}
 
=== 論争・カトリック教会の権威 ===
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=== ルター派諸侯と領邦教会制度 ===
{{SeeSeealso|ヨーロッパにおける政教分離の歴史#シュマルカルデン戦争}}
ルターはその後、各地のルター派[[諸侯]]の間を回りながら[[領邦]]教会の成立を進めていった。このころ、信仰教育のためにルターが書いたのが信徒向けの『[[小教理問答書|小教理問答]]』および教師向けの『大教理問答』であった。同じころ、ルターの改革と国家教会というシステムはドイツを越えて[[北欧]]にまで波及するようになっていた。[[1529年]]にはカール5世包囲網を作り上げようとしたヘッセン伯[[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ]]のもくろみによって、ルターと[[フルドリッヒ・ツヴィングリ]]は合同のための会談を行ったが、聖餐理解に大きな違いがあったため決裂した。
 
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== 思想 ==
{{SeeSeealso|ヨーロッパにおける政教分離の歴史#ルターの思想}}
ルターは「人の姿となられた神の言葉としての[[イエス・キリスト]]にのみ従う」として[[カルヴァン主義]]に比べてよりも信仰を重視し、[[信仰義認]](信仰のみ主義、[[ラテン語]]でSola fide ソラ・フィデ)、[[聖書のみ]]、[[万人祭司]]といった思想を展開した。
 
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<!---未確認。{{要出典|現代のドイツ・ルーテル派([[マリア福音姉妹会]]など)はこれについて悔い改めを表明している。|date=2019年2月}}-->
 
== 影響 ==
キリスト教会の分裂([[シスマ]])はルターの本来の意図ではなかったが、彼の影響下で[[福音主義#福音主義evangelisch|福音主義]]教会([[ルーテル教会|ルター派教会]])と[[アウクスブルク信仰告白]]が形成された。
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*{{Cite book |和書 |author = レオン・ポリアコフ | others = アーリア主義研究会訳 |title = アーリア神話―ヨーロッパにおける人種主義と民主主義の源泉 |date= 1985-08 |publisher = 法政大学出版局 |isbn= 978-4588001581 |ref = ポリアコフ1985}}[原著1971年]
*ミカエル・ブラウン著『教会が犯したユダヤ人迫害の真実』 横山隆訳、マルコーシュ・パブリケーション (1997年) ISBN 4872071700
 
 
== 関連文献 ==
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== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Martin Luther}}
*[[プロテスタント]]
*[[宗教改革]]
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== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Martin Luther}}
{{Wikiquote|マルティン・ルター}}
*[http://www.hyuki.com/trans/smallct.html マルチン・ルターの小信仰問答書]
287 ⟶ 285行目:
*[http://www.archiv-vegelahn.de/nachschlagwerke_luther.html Martin Luther - Eine Bibliographie (German)]
*{{IEP|luther|Martin Luther}}
 
 
{{マルティン・ルター}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:るた まるていん}}
[[Category:マルティン・ルター|*]]
[[Category:キリスト教指導者]]