「壬生藩」の版間の差分

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翌年6月20日、[[阿部忠秋]]が2万5000石で入部する。忠秋はまもなく[[徳川家光]]のもとで[[老中]]に栄進したため、[[武蔵国]][[忍藩]]へ移封され、代わって寛永16年([[1639年]])1月、忠秋と同じく家光の「六人衆」である[[三浦正次]]が2万5000石で入る。三浦氏は検地などを行って藩政の基礎を固めた。第3代藩主・[[三浦明敬]]は[[奏者番]]・[[若年寄]]を歴任している。[[元禄]]5年([[1692年]])2月23日、明敬は[[日向国]][[延岡藩]]に移封となった。
 
代わって[[徳川綱吉]]政権のもとで[[柳沢吉保]]と共に権勢を振るった[[松平輝貞]]が3万2000石で入った。輝貞は[[元禄]]7年([[1694年]])8月27日、1万石を加増された。藩政においては城下の大改修に尽力している。元禄8年([[1695年]])5月、輝貞は[[上野国]][[高崎藩]]に移封され、代わって[[若年寄]]であり[[近江国]][[水口藩]]主である[[加藤明英]]が2万5000石で入った。明英は文武両道に優れた名君で、特に水口では善政を敷いたが、なぜかこの壬生では年貢増徴を特に厳しくし悪政を敷いた。このため「七色の掛物」と称される税に反対する百姓一揆が発生し、刑死者が出る騒ぎとなった(結果として「七色の掛物」の賦課は撤回された)。明英は[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])1月2日に死去。後を[[加藤嘉矩]]が継いだが、同年2月26日、加藤氏は水口に戻された。入れ替わりで[[若年寄]]の[[鳥居忠英]]が3万石で入る。
 
忠英は名君で、殖産興業政策を奨励し近江から[[干瓢]]の栽培を伝え、今日の干瓢国内生産8割を誇る栃木県の礎を築き、[[藩校]]である学習館を創設するなどして藩政の基礎を固めた。[[幕末]]期、壬生藩では[[尊皇攘夷]]をめぐっての争いが絶えず、[[文久]]2年([[1862年]])には勤王派が主導権を握って[[保守]]派の[[江戸]]家老・[[鳥居志摩]]が失脚の上、自殺させられた。ところが[[元治]]元年([[1864年]])に[[水戸藩]]で天狗党の乱が起こると、今度は保守派が力を盛り返して勤王派を退けるなど、藩内は二分して大混乱した。[[戊辰戦争]]では[[明治維新|新政府]]につくか、[[江戸幕府|幕府]]側に与するかで混乱する中、ようやく新政府側に与して幕府軍と戦った。
 
[[明治]]4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]で壬生藩は廃藩となる。その後壬生県を経て栃木県に編入された。