「天誅組の変」の版間の差分

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8日、幕府軍は総攻撃を10日と定めて攻囲軍諸藩に命じた。総兵力14000人に及ぶ諸藩兵は各方面から進軍、天誅組は善戦するものの、主将である忠光の命令が混乱して一貫せず、兵達は右往左往を余儀なくされた。統率力を失った忠光の元から去る者も出始め、天誅組の士気は低下する。14日、紀州・津の藩兵が吉村らの守る天の辻を攻撃、吉村は天の辻を放棄した。忠光は天険を頼りに決戦しようとするが、朝廷は[[十津川村|十津川郷]]に忠光を逆賊とする令旨を下し、十津川郷士は変心して忠光らに退去を要求する。19日、進退窮まった忠光は遂に天誅組の解散を命じた。
 
天誅組の残党は山中の難路を歩いて脱出を試みるが、重傷を負っていた吉村は一行から落伍してしまう。24日、一行は鷲尾峠を経た鷲家口([[奈良県]][[東吉野村]])で紀州・彦根藩兵と遭遇。那須信吾は忠光を逃すべく決死隊を編成して敵陣に突入して討ち死に、一度は敵の包囲網を逃れていた藤本鉄石も引き返して紀州藩本陣に奇襲をかけた末に討ち死にし、負傷して失明していた松本奎堂は自刃した。一行から遅れていた吉村は27日に鷲家谷で津藩兵に撃たれて戦死。他の兵達も相次いで捕縛されるか、自首、戦死するなどして天誅組は壊滅。最終的に無事敵の重囲を掻い潜って、畿内からの脱出逃れる事が成功できたのは忠光や池をはじめとする7人だけだった。
 
忠光は辛くも敵の重囲をかいくぐり脱出に成功、27日に大坂に到着して長州藩邸に匿われた。忠光は後、長州に逃れて[[下関市|下関]]に隠れていたが、[[禁門の変]]の後に長州藩の実権を握った恭順派([[俗論党]])によって[[元治]]元年([[1864年]])11月に絞殺された。
 
事件の後の文久3年(1863年)10月には、平野国臣が[[但馬国]][[生野町|生野]]で代官所を襲撃して挙兵するも、幕府軍の追討を受けて敗北している。([[生野の変]])