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m →‎先史: s/センチ/センチメートル/1
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=== 先史 ===
[[1960年]](昭和35年)から[[1962年]](昭和37年)に静岡県西部の[[浜北市]]根堅(現[[浜松市]][[浜北区]]根堅)において人骨が発見されたが、[[2002年]](平成14年)[[9月]]になって[[旧石器時代 (日本)|旧石器時代]]の約1万4000年前に生息していた[[浜北人]]の人骨であると、科学的な測定法で確認された。浜北人骨は20歳代の女性で身長143センチメートルと考えられている。人骨の発見以来、県内での調査例が増加し、今では200カ所近くに達している。場所は、[[天竜川]]左岸の磐田原台地西端一帯、沼津市の背後の[[愛鷹山]]南麓、[[箱根山]]西麓の3カ所に密集している<ref>荒木敏夫「静岡県の夜明けと律令体制の成立」 本多隆成・荒木敏夫・杉橋隆夫・山本義彦『静岡県の歴史』山川出版社 1998年 10-11ページ</ref>。
 
[[縄文時代]]の遺跡総数は約2000カ所を超える。縄文草創期の遺跡は少ないが、[[伊豆の国市]]三福の仲道A遺跡で[[土器]]が出土している。早期になると撚糸文(よりいともん)や押型文(おしがたもん)の土器が集落跡から出土している。その後(約7000〜8000年前)愛鷹山南麓から箱根山西麓・伊豆半島にかけて集落が急増し、県中部にかけても広がっていく。縄文前期には、遺跡数が減少するが、前期末から中期・後期前半までになると、遺跡数も増加し、県内の縄文最盛期を迎える。東部では集落遺跡・住居の形と構造・土器・[[土偶]]・石棒・石斧などの様相が類似・発達した文化が伊豆半島から掛川市付近まで広がっている。それに対して、西部の遠江平野では、近畿・瀬戸内地域の土器が流入し、伊那谷系の土器なども分布し、東部とは様相を異にしている。また、矢尻として多く使用された[[石鏃]]の原料の石材も県内西部の天竜川付近までは、畿内の[[二上山 (奈良県・大阪府)|二上山]]産出の[[サヌカイト]]や下呂石などが大量に使用されているのに対し、東部では八ヶ岳や神津島の[[黒曜石]]が主流である。遠隔地との交易・交流が盛んに行われていたことが分かる。縄文後期後半になると遺跡数が、東部では激減し、中・西部では緩減する。一方では儀式用の石器が普及し出す<ref>荒木敏夫「静岡県の夜明けと律令体制の成立」 本多隆成・荒木敏夫・杉橋隆夫・山本義彦『静岡県の歴史』山川出版社 1998年 12-15ページ</ref>。