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[[ファイル:Pedro_Álvares_Cabral_-_steel_engraving_by_American_Bank_Note_Company.jpg|thumb|180px|right|ブラジルの「発見者」 [[ペドロ・アルヴァレス・カブラル]]。]]
 
1500年4月22日、[[インド洋]]に向かっていた[[ポルトガル]]の[[ペドロ・アルヴァレス・カブラル]]の船団は、未知の陸地に漂着し、これを「ヴェラ・クルス島」<ref group="註釈">「真の十字架島」の意、ブラジルは最初島と考えられていた。後にマヌエル1世によって「サンタクルスの地」(聖なる十字架の地の意)と命名された。</ref>と名付けた<ref name=shinhankakkokushi26.58>[[#増田編(2000)|増田編(2000:58)]]</ref>。カブラルが上陸したのは現在の[[バイーア州|バイーア]]南部の[[ポルト・セグーロ]]だとされている<ref name=shinhankakkokushi26.58/>。「サルとオウム」しかいなかったこの地は、[[トルデシリャス条約]]に基づいてポルトガルに帰属することとされたものの、その後暫くは開発が進むことはなかった<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:59)]]</ref>。1503年にヨーロッパで需要のあった赤い染料「{{仮リンク|[[ブラジリン|en|Brazilin}}]]」を抽出できる[[ブラジルボク|パウ・ブラジル]] ({{lang-pt-short|pau-brasil}} - 和名: ブラジルボク/ブラジル木)<ref group="註釈">[[スオウ]]の一種、1501年に派遣された遠征隊の水先案内人アメリカコ・ヴェスプッチが「大西洋岸森林にこの木が自生しているのを発見した。バウ・ブラジルは、十字軍時代にアジアから持ち込まれて以来、イタリア・フランス・フランドルの織物業の補助的原料として使われていた。この木の名称が国名の由来になった。</ref>が王室専売とされ、[[新キリスト教徒]](改宗ユダヤ人<ref>[[1492年]]の{{仮リンク|コロナ・デ・カスティーリャ|en|Crown of Castile|label=スペイン}}({{lang-es-short|Corona de Castilla}})での[[レコンキスタ]]達成の結果、追放されてポルトガルに移住し改宗した[[セファルディム]]の子孫である。</ref>)の{{仮リンク|フェルナン・デ・ロローニャ|en|Fernão de Loronha}}({{lang-pt-short|Fernão de Loronha}}<ref>しばしばフェルナン・デ・ノローニャ({{lang-pt-short|Fernando de Noronha}}と誤表記される。)</ref>)に専売権が与えられた<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:130)]]</ref>。ポルトガル人は沿岸部に商館を建設し、1504年には貴金属を求めて、初の内陸部への「奥地探検」(エントラーダ)を行った<ref name=koutougakkourekishikyoukasho.35>[[#アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003)|アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:35)]]</ref>。
 
ブラジルには既に「[[インディオ]]」と呼ばれることになる多くの人々([[先住民]])が居住しており、現在ブラジル人であるとされるこれらの人々の歴史は[[ポルトガル人]]の到来以前から始まっていたが、ブラジルの歴史はポルトガル人の到来によって大きく変わった。歴史上はじめて「[[ブラジル人]]」と呼ばれることになったのは、このパウ・ブラジルの貿易に関わる商人達だったのである<ref name=koutougakkourekishikyoukasho.35/>。
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このように、当初ポルトガル人はインディオとのパウ・ブラジル貿易のみを行っていたため、入植も交易拠点となるフェイトリアの建設が主だったが、16世紀前半には早くも沿岸部のパウ・ブラジルが枯渇した<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:131)]]</ref>。パウ・ブラジルの枯渇後、ポルトガル人はパウ・ブラジルの伐採から貴金属の採掘にブラジル植民地の目的を変え、1532年には南西の[[パラグアイ]]や西の[[ペルー]]方面に存在すると考えられた鉱山を探すために、ブラジルで初めて{{仮リンク|サン・ヴィセンテ島 (サンパウロ, ブラジル)|en|São Vicente Island (São Paulo, Brazil)|label=サン・ヴィセンテ}}と{{仮リンク|ピラチニンガ|pt|Piratininga}}の二つの町が建設された<ref>[[#アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003)|アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:48)]]</ref>。
 
[[1494年]][[6月7日]]に締結された[[トルデシリャス条約]]によるスペインとポルトガルによる[[新世界]]の分割を認めない立場から、[[フランス]]人がブラジルに侵入してくると、[[1534年]]にポルトガル王[[ジョアン3世 (ポルトガル王)|ジョアン3世]]はブラジルに{{仮リンク|カピタニア制|en|Captaincy}}({{lang-pt-short|Capitanias do Brasil}})を導入し、15の[[世襲]]制カピタニア([[:pt:Capitão-general|Capitão-general]]に統治される[[行政区画]])に分割された<ref>[[#ファウスト/鈴木訳(2008)|ファウスト/鈴木訳(2008:24-25)]]</ref>。カピタニア制の下で[[セズマリア]](開発地)の集中から{{仮リンク|[[ラティフンディオ|pt|Latifúndio}}ウム]](大私有地)が生まれたが、民間人に開発を任せるカピタニア制は2つのカピタニアを除いて失敗に終わり、1549年に[[総督]]制が導入された<ref>[[#ファウスト/鈴木訳(2008)|ファウスト/鈴木訳(2008:25-27)]]</ref>。
 
=== 砂糖の時代 ===
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1549年に、[[ヴァロワ朝]][[フランス王国]]の侵入に対処するためにポルトガル王室は[[バイーア州|バイーア]]の[[サルヴァドール]]に総督府を置き、初代総督には{{仮リンク|トメ・デ・ソウザ|en|Tomé de Sousa}}が任命された。これにより、ブラジルの開発は第三段階に入った<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:134-135)]]</ref>。しかしフランス人の侵入は止まらず、1556年にフランスの[[プロテスタント|新教徒]][[ユグノー]]達が現在の[[グアナバラ湾]]周辺に{{仮リンク|南極植民地 (フランス領)|en|France Antarctique|label=南極フランス}}を建設した<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:135)]]</ref>。フランス人は定着を望んだが、フランス本国の内乱([[ユグノー戦争]])もあってポルトガル人とインディオの同盟に敗れ、1567年に南極フランスはポルトガル領に編入された。その後もフランス人は1612年に[[マラニョン州|マラニョン]]に[[サン・ルイス (マラニョン州)|サン・ルイス]]を建設して{{仮リンク|赤道植民地 (フランス領)|en|Equinoctial France|label=赤道フランス}}を築いたが、赤道フランスも3年でポルトガルに編入された。
 
パウ・ブラジルの枯渇後に商品として注目されたのは、鉱物の他には[[砂糖]]だった。1516年に[[マデイラ諸島]]から[[ペルナンブーコ]]に移植されたサトウキビ栽培は、1533年に初の{{仮リンク|エンジェニョ|en|Engenho}}({{lang-pt-short|Engenho de açúcar}}、サトウキビ農園と製糖工場を併せたもの)が建設されたことを境に、エンジェニョでの[[黒人]]とインディオを利用した[[奴隷]]労働により[[ブラジル北東部|北東部]]で栄え、一気に主要産業となっていった。こうした奴隷はアフリカからの黒人奴隷の連行と、インディオを捕獲することで賄われたが、次第にインディオの数が足りなくなると、エントラーダ(遠征隊)は奥地に遠征し、奴隷狩りを行うようになった。[[イエズス会]]の修道士は[[アメリカ大陸]]での[[カトリック教会|カトリック]]の布教を、特に現在のパラグアイ、[[アルゼンチン]]北東部、[[ボリビア]]東部、[[ウルグアイ]]、ブラジル南部に居住する[[グアラニー族]]に対して行ったが、1560年に創設された{{仮リンク|サンパウロ・ドス・カンポス・デ・ピラチニンガ|en|São Paulo dos Campos de Piratininga|label=サンパウロ・デ・ピラチニンガ}}({{lang-pt-short|São Paulo dos Campos de Piratininga}})に居住する{{仮リンク|パウリスタス (サンパウロ)|en|Paulistas|label=パウリスタス}}のエントラーダ(奥地探検隊)である[[バンデイランテス (ブラジル探検隊)|バンデイランテス]]は好んで[[イエズス会伝道所|イエズス会の布教村]]を襲い、多くのトゥピ・グアラニー系インディオを奴隷として売却した。バンデイランテスの活動地は[[パラグアイ]]にまで及んだ。また、砂糖プランテーションの労働力がインディオの奴隷だけでは足りなくなると、ポルトガル人は既に15世紀からマデイラ諸島で行っていたように、[[西アフリカ]]の[[セネガンビア]](現在の[[セネガル]]と[[ガンビア]])や[[黄金海岸]](現在の[[ガーナ]])や[[奴隷海岸]](現在の[[ベナン]]と[[ナイジェリア]])、及び[[アフリカ中部]]の[[コンゴ]]、[[アンゴラ]]、更には[[東アフリカ]]の[[モサンビーク]]から、[[マンディンゴ人]]、[[ハウサ人]]、{{仮リンク|アシャンティ人|en|Ashanti people}}、[[ヨルバ人]]、[[フォン人]]、[[コンゴ人]]、[[キンブンド人]]、[[オヴィンブンド人]]など、多種多様なアフリカの人々を奴隷としてブラジルに連行した。また、こうして渡来したポルトガル人の多くはインディオや黒人と性交渉を持ち、[[ムラート]]({{lang-pt-short|Mulato}}、{{仮リンク|[[ルーコス|pt|Mamelucos|label=マメルーコ}}ク]] - 奴隷とも)と呼ばれる多くの混血者が生まれることになった。
 
こうしてブラジルは他のポルトガル領の植民地である[[ゴア]]や[[マカオ]]とは異なった商品作物の生産を軸とする開発型植民地となった。しかし、植民地であるが故に本国と競合する産品の生産や、自律的な工業化は許されず、[[重商主義]]的な本国経済を補完するための極めて歪な[[モノカルチャー]]経済が成立することになった<ref>[[#アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003)|アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:54-58)]]</ref>。さらに、ブラジルやポルトガルの商人は奴隷貿易で莫大な利益を上げていたが、このようにして成立した経済構造においてその富はブラジルには還流されなかった<ref>[[#アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003)|アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:57-58)]]</ref>。こうして植民地期のブラジル経済はポルトガルへの従属経済となり、これ以降19世紀末までブラジルの経済は外国市場と結びついた奴隷制プランテーション農業に規定されることになった。
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領土拡張の当初の目標はかつてシスプラチナ県として領有していたウルグアイであり、これは[[大戦争]]をはじめとするウルグアイの内乱において、イギリス、フランスと敵対して貿易を保護し、大アルゼンチン(パラグアイ、ウルグアイとの合邦)の実現を図る[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]に対する牽制の意味を含めて[[コロラド党 (ウルグアイ)|コロラド党]]を支援することによって達成されようとした。事実、1851年にロサス派が勝利を目前にしたところで[[エントレ・リオス州]]知事[[フスト・ホセ・デ・ウルキーサ]]を唆して介入したことにより、1852年2月3日にロサスは{{仮リンク|カセーロスの戦い|es|Batalla de Caseros}}({{lang-es-short|Batalla de Caseros}})で敗れて失脚し、アルゼンチン・ウルグアイの合併という事態は回避された。また、ブラジルの南米における最大のライバルがアルゼンチンであることを強く認識させたのもこの戦争だった。
[[ファイル:Lei Áurea (Golden Law).tif|サムネイル|黄金法(1888年)。]]
ロペス父子が支配し、近代化政策を続ける[[パラグアイ]]も標的となった。大戦争後もウルグアイの政治的帰属はアルゼンチン、パラグアイ、ブラジルの関係に複雑な影響を与えていたが、ウルグアイでの内乱がきっかけとなって、1864年にパラグアイの[[フランシスコ・ソラーノ・ロペス|ソラノ・ロペス]]大統領はウルグアイへの内政干渉を理由にブラジルに対して宣戦布告し、[[パラグアイ戦争]](三国同盟戦争)が勃発した。ブラジル帝国が主体となったアルゼンチン、ウルグアイとの三国同盟とパラグアイのロペス政権との間で戦われたこの戦争では、南米で最大の軍隊を保有していたパラグアイの頑強な抵抗もあって激戦が続いたが、{{仮リンク|[[ルイ・アウベルヴェス・デ・リマ・エ・シウバ|en|Luísルヴァ Alves de Lima e Silva, Duke of Caxias(カシアス公爵)|label=カシアス公}}]]によるブラジル軍の指揮もあり、1870年にロペスが{{仮リンク|セロ・コラーの戦い|en|Battle of Cerro Corá}}で戦死し、ラテンアメリカで最も凄惨な戦争となったこの戦争は終わった。敗戦により南米で最も先進的な経済制度を備えていたパラグアイの人口は半減し、アルゼンチンとブラジルに領土は分割され、自立的発展を遂げていた工業は崩壊し、国家は壊滅した。ペドロ2世にとってこの戦争はブラジル人の[[ナショナリズム]]を奮い立たせる経験として肯定的に捉えられたが<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:292)]]</ref>、勝者となったブラジルも10万人の死傷者を出し、30万ドルに及ぶ戦費をイギリスからの債務で賄ったために戦争終結後に財政崩壊を起こした。さらに前線でアルゼンチン兵と行動を共にした帰還兵や、戦場で黒人と共に戦った軍人により、共和制思想や奴隷制廃止が大きく喧伝されるようになった。また、パラグアイ戦争は、ブラジルとアルゼンチンに両国の緩衝地帯の必要性を理解させることになった。
 
1844年に新関税法が導入されると、輸入関税の引き上げはブラジルの工業化の基礎条件を築いた。また、1840年代に[[ブラジル南東部|南東部]]のリオデジャネイロ県で[[コーヒー]]の栽培が成功すると同時に、[[ブラジル北東部|北東部]]での砂糖と[[綿花]]の栽培が衰退したため、以降コーヒーはブラジルの奴隷制[[プランテーション]]農業経済の主軸を担い、外貨をもたらすと共に[[ファゼンダ]]制を強化した。コーヒー栽培には多量の労働力を必要とするが、1850年の奴隷貿易廃止によって黒人奴隷の新規流入が停止したために、1860年代からブラジルの白人化を目指していた当時の自由主義知識人や寡頭支配層の思惑と合致する形で、奴隷に代わる労働力としてヨーロッパから移民が導入されることになった。