「平野平左衛門」の版間の差分

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辞職後に上武鉄道([[秩父鉄道]])にうつり汽車課長に就任<ref>汽車課長技手、寄居機関庫主任[{{NDLDC|805309/281}} 『帝国鉄道要鑑. 第2版』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。その後[[南満州鉄道]]にうつり現場巡視員として[[大連市|大連]]で勤務した。
 
1913年(大正2年)一旦帰国したが19121922年(大正11年)三男博三の満鉄出向に同行し渡満。1927年(昭和2年)大連で死去する。なお平野家は鉄道業に従事するものが多く長男浜五郎が朝鮮鉄道元山機関区長、次男俊太郎が満鉄公主嶺機関庫助役、三男博三が[[鉄道教習所|中央教習所]]から鉄道省旅客課を経て満鉄に出向している。さらに孫・勉二他2人が機関士となった。また[[文仁親王妃紀子]]は玄孫にあたる<ref>「秋篠宮家創立」『毎日グラフ 臨時増刊』通巻2118号、1990年、34頁</ref>。
{{悠仁親王の系譜}}