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[[東京府]][[東京市]](現在の[[東京都]]・[[文京区]])出身。[[文京区立誠之小学校|誠之尋常小学校]]、[[東京都立日比谷高等学校|東京府立第一中学校]]を経て、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]文丙では成績が下位だったため、一浪して[[東京帝国大学法学部]]入学。1944年(昭和19年)9月、[[大蔵省]]をトップで入省。主に[[理財]]畑を歩む。
[[証券不況|昭和40年不況]]の折、戦後初めての[[赤字国債]]発行に際して、1965年10月1日、[[理財局]]国庫課[[日本国債|国債]]発行準備室立ち上げにともない、準備室長に[[大谷邦夫]]国庫課長(1947年入省、日銀政策委員、[[協和銀行]]副頭取、[[徳陽シティ銀行|徳陽相互銀行]]社長)が就任し、竹内が同局総務課長兼国庫課長に就いた。<!--当時の新聞記事検索で、当該国債発行準備室立ち上げ記事がある。-->
1967年、[[近畿財務局]]長、のち[[主計局]]次長、1971年6月15日~1973年6月26日の間、[[大臣官房]]長を経て、1974年
1989年(平成元年)から、1965年(昭和40年)の[[山一證券]]破綻事件で設立となった由来をもつ[[資本市場振興財団]]理事長になる。1993年(平成5年)[[勲一等]][[瑞宝章]]受章。1999年(平成11年)から大蔵省[[参与]]。
帝大時代は[[ボート]]部に属し、東大ボート部から大蔵省へ、これまで比較的多くの大蔵官僚が歩むコースの先鞭をつけた。後輩の[[長岡實]]もそのラインによりスカウトされた。▼
▲帝大時代は[[ボート]]部に属し、東大ボート部から大蔵省へ、これまで比較的多くの大蔵官僚が歩むコースの先鞭をつけた。後輩の[[長岡實]]もそのラインによりスカウト
なお[[バブル経済]]崩壊とその処理の拙さにより、大蔵省・日銀バッシングが激しくなった頃に、大蔵省が戦後復興から時代を経るにつれ、その権限を増幅させるに伴い、それに対する大蔵官僚・職員の意識・気構えが付随していかなかったと述べている。▼
▲なお[[バブル
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{先代次代|近畿財務局長|1967年 - 1968年|[[船後正道]]|[[高橋英明]]}}
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