「日本美術史」の版間の差分
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日本の美術は、[[古代]]以来、[[中国]]からの影響が大きいが、[[平安時代]]の[[国風文化]]を初め、日本独自の展開も見られる。[[近世]]初期に[[宣教師]]らが日本を訪れ、一部に西洋美術が知られるようになったが、その影響は局所的であった。ただし、[[江戸時代]]の美術に[[オランダ]]絵画の影響を指摘する研究者もいる。明治時代になると、[[近代化]]=[[西洋]]化が[[国家]]目標になり、美術分野でも[[お雇い外国人]]による指導が行われ、芸術の本場と考えられた[[フランス]]へ留学する者もいた。[[洋画]]の技法が習得される一方、伝統への志向が生れ「日本画」が誕生した。一方、海外において日本美術の装飾性が注目され、[[ジャポニスム]]がブームとなり、[[印象派]]や[[アール・ヌーヴォー]]への刺激を与えた。
日本美術は、広い視野で見れば、[[アジア]]美術の一環であり、[[インド]]、中国を含む[[仏教]]圏の美術と見なすこともできる。日本の美術は、[[縄文時代]]を例外として、常に外国(近世以前は主に中国、近代以降は主に西洋)の影響を強く受けつつ、独自の様式を発達させてきた。日本美術の流れを理解するには、常に中国
欧米の大美術館の多くに日本美術ギャラリーがあり、「日本美術」は独自の様式をもった美術として認識されていることが分かる。ただし、[[ニューヨーク]]の[[メトロポリタン美術館]]やロンドンの[[大英博物館]]の日本ギャラリーは、中国美術やエジプト美術のギャラリーに比べて規模も小さく、開設時期も比較的新しいということは事実である。
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文明の進化に伴い、支配者と被支配者が分化したのもこの時期である。日本列島は未だ先史時代であり、この時代の歴史は同時代の中国の史書によって間接的に知る他ない。この時代の土器は、前時代のものに比して器形も洗練され、装飾も控えめな[[弥生土器]]となる。1万年以上続いた縄文時代に比して、弥生時代は期間的には数百年に過ぎないが、出土品の形式編年から前期・中期・後期に分けられている。
この時代の土器は1874年(明治17年)に帝国大学(現・[[東京大学]])の隣地の向ヶ岡弥生町(現・東京都文京区弥生)から出土した壷形土器が学史的には最初の出土例とされている。出土地名をとって「弥生式土器」の名称が定着し、それが時代名ともなった。弥生式土器は地理的に中国大陸
縄文式土器に見られた過剰な装飾は影を潜め、弥生式土器は器形、文様ともに温和で洗練されたものが多く見られるようになった。土器の中には口縁部に人面を表したものもあるが、一般にこの時代には具象的な人物表現は稀で、前代に盛んに作られた土偶もこの時代にはほとんど姿を消している。
土器以外の出土品としては青銅器、鉄器などの金属器、石製品、骨角製品、貝製品などがある。青銅器には銅剣、銅鉾、銅戈(どうか)、[[銅鐸]]、銅鏡などがある。この内、時代を象徴する代表的遺物と目されるのは銅鐸であろう。銅鐸は後世の釣鐘を扁平に圧し潰したような器形で、その祖形は
*'''[[弥生土器]]'''
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===平安時代===
[[ファイル:Byodoin Phoenix Hall Uji 2009.jpg|thumb|left|260px|[[平等院]]鳳凰堂]]
平安遷都の794年から1185年頃まで、9世紀から12世紀に至る約4世紀にわたる時代である。美術史では、[[遣唐使]]が廃止された894年辺りを境にして、以前を平安時代前期、以後を平安時代後期(藤原時代)と呼ぶことが多い。特に彫刻史の方面では平安時代前期を貞観(じょうがん)時代または弘仁時代と呼ぶこともあったが、特定の元号で平安時代前期を代表させることにはあまり意味がないことから、今日ではこれらの呼称はあまり用いられていない。
平安時代前期には[[空海]]、[[最澄]]が相次いで唐に渡航し、[[密教]]が日本に伝えられた。空海、最澄らが伝えた仏教思想や文物は美術の面でも大きな影響をもたらし、密教[[曼荼羅]]や、奈良時代には見られなかった本格的密教彫像が造られた。日本の文化は常に中国大陸
====平安前期(弘仁時代・貞観時代)====
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