「森田草平」の版間の差分

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1910年8月、漱石が胃潰瘍の療養に滞在していた伊豆の[[修善寺]]で大食のため吐血し生命の危機に陥った([[夏目漱石#修善寺の大患|修善寺の大患]])同じ頃、東京は大雨により大水害に見舞われ([[明治43年の大水害]])、草平一家の住む借家の裏の崖が崩れて家が倒壊し、漱石の妻に世話になっている。1916年12月、師である漱石死亡。1919年、次男が誕生。
[[1920年]]([[大正]]9年)に漱石門下の[[野上豊一郎]]の紹介で[[法政大学]][[教授]]となる。しかし[[1934年]](昭和9年)に法政大学の学内紛争(いわゆる[[法政騒動]])から野上と対立し、[[関口存男]](後に公職追放)らの右派の革新教授や卒業生と共謀、野上はじめ教授多数(中には漱石門下以来の友人の[[内田百間|内田百{{CP932フォント|閒}}]]もいた)を大学から追放したものの、結果翌年に自身も大学を去ることになる。
 
その後は『吉良家の人々』『[[細川ガラシャ|細川ガラシヤ夫人]]』などの歴史小説を著す一方で[[ヘンリック・イプセン|イプセン]]・[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]・[[ミゲル・デ・セルバンテス|セルバンテス]]・[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ|ダヌンツィオ]]・[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ|ボッカチオ]]などの翻訳を手がけた。