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[[1640年]](寛永17年)に[[加賀藩]]によって設置され[[1870年]](明治3年)まで続いた黒部[[奥山廻り]]役は、藩林保護のための検分登山を行い、[[飛騨山脈|北アルプス]]の主峰のほとんどを登って回った{{sfn|大町山岳博物館|1974|pp=260-273}}。
文化13年(1816年)、[[小尾権三郎]](延命行者)の[[甲斐駒ヶ岳]]、
[[化政文化|文化・文政期]](1804年 - 1829年)、[[1819年]]の明覚法師と永昌行者による[[乗鞍岳]]、[[1828年]]の[[播隆]]上人による[[槍ヶ岳]]など、[[開山]]が相次ぐ。また、立山講や御岳講、駒ヶ岳講などの[[講]]中登山が盛んになる。[[寛政|寛政期]](1789年 - 1800年)に寺社詣でが解禁され、『[[東海道中膝栗毛]]』(1802年 - 1822年)が[[人気]]を博すなど、[[大衆|民衆]]の間に[[旅行#歴史|旅行]]人気が広まったことが背景として考えられ、参加する者の多くにとっては、宗教的な意味合いよりも、物見遊山としてのものだったと考えられる{{sfn|菊地|2003|pp=11-72}}。
 
[[江戸時代]]、[[文人画]]家[[池大雅]]、[[医者]][[川村錦城]]、[[医学者]][[橘南谿]]、[[画家]][[谷文晁]]などが、山そのものを味わうために山に登ったことが知られている{{sfn|大町山岳博物館|1974|pp=260-273}}。