「漢の南越国征服」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
McYata (会話) による ID:72191835 の版を取り消し
タグ: 取り消し
16行目:
 
== 背景 ==
{{詳細記事|南越国|趙佗}}嶺南地方は、[[始皇帝]]の時代に秦の支配下に入った(秦の[[秦の百越征服]])。しかし秦の崩壊の混乱に乗じて、秦の武将だった[[趙佗]]が自立し、南越国王を自称した<ref name="loewe87a-128">{{Harvnb|Loewe|1987a|loc=128}}.</ref><ref name="yu87-451-2" />。趙佗は現在の[[河北省]][[正定県]]の出身だった<ref name="yu87-451-2">{{Harvnb|Yü|1987|loc=451–452}}.</ref>。漢が成立して後、南越国は漢の南辺を脅かすことをしなかった<ref name="loewe87a-128" />。紀元前196年、漢の高祖[[劉邦]]は[[陸賈]]を南越国に派遣し、正式に趙佗を王と認めた<ref name="loewe87a-128" />。しかし両国の間には、しばしば緊張が走ることもあった<ref name="yu87-452" />。漢の呂后は、南越国への金属製品や雌の家畜の輸出を禁じ、趙佗を憤慨させた<ref name="yu87-452" />。紀元前183年、彼は南武帝と称して、漢の皇帝と同等であると宣言した<ref name="loewe87a-136" />。2年後、南越国は漢の藩国である[[呉氏長沙国|長沙国]]を攻撃した<ref name="loewe87a-136">{{Harvnb|Loewe|1987a|loc=136}}.</ref>。紀元前180年、陸賈がふたたび南越国に使節として到来した<ref name="yu87-452" />。彼は趙佗を説得して皇帝号を取り下げさせ、名目的な漢の宗主権を認めさせることに成功した<ref name="yu87-452">{{Harvnb|Yü|1987|loc=452}}.</ref>。
[[ファイル:Si_lü_yu_yi.JPG|サムネイル|趙眜の[[玉衣]]]]
紀元前137年、趙佗が死去した。孫の[[趙バツ|趙眜]]が跡を継いだが、紀元前135年に[[ビン越|閩越]]の攻撃を受け、漢に救援を請うた<ref name="yu87-453">{{Harvnb|Yü|1987|loc=453}}.</ref>。漢はその見返りとして趙眜の子[[趙嬰斉]]を[[長安]]に送らせ、彼を宿衛にいれた<ref name="yu87-452-3">{{Harvnb|Yü|1987|loc=452–453}}.</ref>。南越国は漢への臣礼を怠っていたが、漢がとくにそれを咎めることもなかった<ref name="yu87-453" />。