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家康自身やその家族が血を流した、などという話も、比較的信頼のおける史料があるのは、祖父[[松平清康|清康]]が村正で家臣に殺された一件だけで、他は著者不明の書や偽書、あるいは死後100年以上後に書かれた書籍に登場する。祖父の殺害に用いられたのが村正だったのも、当時家臣には千子派(村正一派)の武器が普及していたのだから、特に不思議な話ではない{{sfn|福永|1993|loc=5巻, pp. 166–169}}{{sfn|西日本新聞|2013}}。まして家康が村正を禁じたなどというのは根拠の無い俗説である{{sfn|西日本新聞|2013}}{{sfn|徳川美術館|2008}}。
 
しかし、[[正保]]年間(1645-1648年)以降に書かれた偽書『[[三河後風土記]]』で、村正の作は徳川三代不吉の刀槍、直臣陪臣に至るまで皆所有を禁止{{sfn|平岩親吉(伝)|1648|loc=38巻|ps=(国文学研究資料館の資料では2298-2302コマ(/全2427コマ))}}とされてしまう。この説が100年かけて1700年代後半までにはかなり広まり、徳川家以外にも災いをもたらす刀だとか{{sfn|根岸|鈴木棠三(編注)|1972|pp=118-119}}、実は四代不吉の刀であるとか{{sfn|経済雑誌社校|1904|pp=161-162}}、噂に尾ひれがついていく。1800年代になると、幕府の正史『[[御実紀]]』の附録に妖刀村正伝説が収録される{{sfn|経済雑誌社校|1904|pp=161-162}}など、権威も付けられていった。
 
根拠が無いにも関わらず、一体なぜこれほどまでに妖刀伝説が広まったのかについては、以下の説がある。