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{{by|1996年}}シーズン終盤、伊良部のメジャー流出を防ぐ目的で、ロッテ球団がタイトルを伊良部が獲得できるように投手陣の登板スケジュールを調整したことに不満を抱き、オフに退団を決意する。
 
ロッテ退団後の1996年11月13日に金銭トレードにて年俸2億5000万円の2年契約で[[読売ジャイアンツ|巨人]]へ移籍。V2、そして日本一奪回のキーマンとして期待がかけられる。しかし、移籍後すぐに左肩を故障し、{{by|1997年}}はわずか2試合の登板(6[[イニング]])にとどまる。なお、この2試合の登板は本人のコンディションを考えず半ば強制的な登板に近いものだった。この年に肩の[[手術]]を行い、翌{{by|1998年}}の春季[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]で数回だけ良いピッチングを披露するが、「肩に違和感がある」という理由で再度離脱。「[[ジャックナイフ]]が刺さっている」「[[肩]]に[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]が乗っているようだ」などと弁明。「肩に違和感」というフレーズで登板拒否を繰り返していたため「ミスター違和感」と呼ばれた。二軍落ちしてからは練習もそこそこに切り上げ、昼には帰宅していたことから「昼マン」と揶揄されていた。
 
結局、1998年は一度も登板せずシーズン途中の5月30日に解雇となった。当時球団オーナーの[[渡邉恒雄]]は「金をやるから出ていけ」と激怒したという。2シーズンに満たない在籍期間で、登板数2試合、投球回数6回で5億円を受け取りながら「俺を[[ケビン・ミッチェル|ミッチェル]]や[[マイク・グリーンウェル|グリーンウェル]]と一緒にしないでくれ」と[[マスメディア|マスコミ]]に反論し、巨人退団決定後には「巨人に復帰するのが夢だ」とコメント。最後は「肩が治ったら巨人の入団テストを受けに帰って来る」と言い残して日本を去った。退団後の{{by|2000年}}に[[ヒューストン・アストロズ]]傘下のAA級[[ラウンドロック・エクスプレス|ラウンドロック]]<ref>その後、ラウンドロックはAAA級に属している。</ref>で1試合に登板しているが、結局巨人の入団テストは受けなかった。
 
しかし巨人解雇直後の1998年7月、[[:en:James Andrews (physician)|ジェームス・アンドリュース]](後に[[田澤純一]]の[[トミー・ジョン手術]]を執刀)の下で肩[[関節鏡]]手術を受けたところ、左肩[[回旋筋]]腱板の全層断裂が判明したため、違和感の根拠があったのは事実であった。結局、この肩の怪我が投手生命を終わらせることになり<ref>http://espn.go.com/blog/new-york/mets/post/_/id/20929/hillman-the-original-tallest-met</ref>、2000年に現役を引退した
 
なお、元巨人の[[ウォーレン・クロマティ]]は、かつて1985年に手首の異常を訴えたところチームドクターに異常なしと判断され別の医者に診せたら亀裂が入っていた件があったが、フロント上層部からチームドクターの診断ミスを公にしたくないということで口止めを命じられたと述べている<ref>ウォーレン・クロマティ、ロバート・ホワイティング共著「さらばサムライ野球」309頁</ref>。