「二条城」の版間の差分

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# 室町幕府15代将軍[[足利義昭]]の居城として、[[織田信長]]によって作られた城。二条通からは遠く離れていた。ただし平安京[[条坊制]]の「二条」(二条大路と中御門大路(現椹木通)に挟まれた地域)には城域の南部分がわずかに含まれる。義輝の「二条御所」とともに「二条」の名を冠して呼ばれるのはこのためと考えられる。
# 織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」。二条通にも面さず条坊制の二条にも属していない。二条家の屋敷跡に設けられたための呼称と考えられる<ref group="注釈">信長公記天正4年4月条「二条殿御構へ御普請の事」には「二条殿御屋敷幸い空間地にてこれあり」とある。</ref>。
#<nowiki>[[豊臣秀吉]]</nowiki>が作ったもの。
# [[徳川家康]]が京都の守護及び上洛時の宿所として造営した城。後の近代には[[宮内省]]の所管となり「二条離宮」となる。
現存する元離宮二条城は5の城である。1と2は同じ場所に造られたが連続性はない。1を「二条城」と称した例は当時から現代に至るまで無いが2の前史としてここに紹介しておく。2と3と4は同じものと見る説<ref>[[広辞苑]]、平凡社日本歴史地名大系など</ref>もあるが、『[[信長公記]]』その他の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として別のものとするのが現在では通説となっている。2と3と4について「二条城」と呼ぶのは5.が完成した江戸時代以降のことであり、5と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。この節では、近世以降の現在の元離宮二条城である5.の前史として1の「武衛陣の御構え」と2と3と4との「二条城」について略説する。