「山辺の道」の版間の差分

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また、『[[古事記]]』には、崇神天皇の条と[[景行天皇]]の条に、それぞれ次のような記述がある。
{{枠の始まり|赤}}《崇神天皇条 原文抜粋》御陵在山邊道勾之崗上也 《書き下し文》{{Ruby|御陵|みさざき}}<ref name="御陵" group="*" />は{{Ruby|山辺道|やまのへのみち}}の{{Ruby|勾岡|まがりのおか}}の{{Ruby|上|ほとり}}に{{Ruby|在|あ}}る{{Ruby|也|なり}}。 <ref name="Tsukuda-2005-pdf" />{{rp|page=117}}<br />《景行天皇条 原文抜粋》御陵在山邊道上 《書き下し文》御陵は山辺道の{{Ruby|上|ほとり}}に在り。
{{枠の終わり}}
こちらでは、[[崇神天皇#陵・霊廟|崇神天皇陵]]の在り処を、山辺の道の「勾岡/勾の岡(まがりのおか)」の「上(ほとり/うえ)」と記している。つまり、「上」の読み次第であるが、勾岡という場所の近辺(ほとり)か、表立った所(うへ)、あるいは、上(うへ)にあるという。
 
これらの記述を論拠として、山辺の道は、[[古墳時代]]の初期、[[4世紀]]の崇神天皇の時代には既に整備されていたと考えられている{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=136}}。もっとも、[[弥生時代]]後期には既に[[布留遺跡]]と[[纏向遺跡]]を結ぶ道として存在していたとも推測されている。
 
[[ファイル:Yamanobe-no-michi01s3872.jpg|thumb|220px270px|山辺の道」風景沿いに建つ、[[柿本人麻呂]]の[[万葉集|万葉]][[歌碑]]
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歌は「衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑徃者 生跡毛無([[原文#書き下し|書き下し文]]:{{Ruby|衾道|ふすまぢ}}を {{Ruby|引手の山|ひきてのやま}}に {{Ruby|妹|いも}}を{{Ruby|置|お}}きて {{Ruby|山路|やまぢ}}を{{Ruby|行|ゆ}}けば {{Ruby|生|い}}けりともなし)」──『万葉集』巻2・212。<br />愛妻の亡骸を山中に葬り置いた後、生きている心地も無いほど茫然自失の体でとぼとぼと山路を帰る心情を詠んだ[[挽歌]]で、「引手の山」は死者を弔う龍王山(※[[龍王山城]]で知られる山)の異名とされる。碑文の[[揮毫]]は[[犬養孝]]。所在地は[[天理市]]中山町にある中山寺跡の前<ref group="*">万葉歌碑(柿本人麻呂)({{googlemap|万葉歌碑(柿本人麻呂)}})</ref>。]]
 
奈良から石上・布留([[天理市]])を経て三輪([[桜井市]])に通じていたとみられ、その全長は約35&nbsp;km、幅は2&nbsp;m足らずの小道であるが、沿道には[[石上神宮]]、[[大神神社]]、[[長岳寺]]、[[崇神天皇陵]]、[[景行天皇陵]]、[[金谷石仏]]などの多くの寺社や古墳群があり、この地に権力を握る古代国家の中枢があったことや、文化交流の重要な幹線道路であったことをうかがわせている{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|pp=137–138}}{{sfn|浅井建爾|2015|p=107}}。古墳時代の奈良盆地は沼地や湿地が多く、これを避けて山林、集落、田畑の間を縫うように山裾に沿ってつくられたため、道は曲がりくねっている{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=136}}<ref name="narachiri" />。
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=== 道程 ===
金屋の集落を後にして三輪山の山麓を北へ行くと三輪山の神である[[大物主]]を[[祭神]]とする[[大神神社]]につく{{sfn|浅井建爾|2015|p=107}}。大神神社は、日本最古の神社で大和国の一宮である{{sfn|浅井建爾|2015|p=107}}。三輪山信仰は[[縄文時代|縄文]]または[[弥生時代]]まで遡るかも知れない。
 
大神神社からさらに北の沿道には、[[茅原大墓古墳]]・[[景行天皇陵]]・[[崇神天皇陵]]・[[櫛山古墳]]・[[西殿古墳]]・[[東乗鞍古墳]]・[[西乗鞍古墳]]などの古墳群がある{{sfn|浅井建爾|2015|p=107}}。また、茅原大墓古墳のすぐ西側に、[[倭迹迹日百襲姫命]]の墓とされる[[箸墓古墳]]があり、古代・[[邪馬台国]]を治めていた[[卑弥呼]]の墓とする説もある{{sfn|浅井建爾|2015|p=107}}。[[古墳時代]]にはいると山麓地帯には墳丘長200メートルを超える巨大古墳が造られた。『[[古事記]]』には、「山辺道の勾岡{{small|(まがりのおか)}}」の近辺に[[崇神天皇]]の[[行燈山古墳|陵]](墳丘長242メートル)が、山辺道の近辺に[[景行天皇]]の[[渋谷向山古墳|陵]](310メートル)があると記している。初期大和政権がこの地に誕生したと考えられている。
 
このように両天皇の墓が「山辺道」の近辺にあると『古事記』に記されているところから[[8世紀]]の初めにはこの道が出来ており、7世紀末の[[藤原京]]時代にもできあがっていたのではないかと推測できる。