「大坂城」の版間の差分

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台地の北端を造成して築城した大坂城の防衛上の弱点は大軍を展開できる台地続きの南側で、西方から南方を囲むように惣堀がめぐらされ、冬の陣直前には玉造門の南方に真田信繁により半月形の出城・[[真田丸]]が構築された。果たして冬の陣は、この方面から攻めかかる徳川方と篭城の豊臣方との間で激戦となった。<!--一説によれば、築城者である秀吉も、南側の防御の弱さを気にしていたといわれる。また、あるとき家康は御伽衆を集め座興として大坂城を攻める時はどうすればよいかと問い、その答として南方から攻め上げる事を話したが、のちに家康は冬の陣においてその通りの攻城を行ったという逸話もある。いずれも真偽は不詳である。-->
 
[[ファイル:Hogonji00bs3872.jpg||thumb|250px|[[宝厳寺]]唐門(国宝)(後方は観音堂)]]
なお、[[琵琶湖]]の北部に浮かぶ[[竹生島]]にある[[宝厳寺]]唐門(国宝)は、現存する唯一の秀吉時代大坂城の遺構ではないといわれている<ref>[https://shirokokuho.shakunage.net/hogonk1.html 国宝 宝厳寺 唐門 滋賀県長浜市]</ref>
 
=== 徳川氏大坂城 ===