「怡土城」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
28行目:
 
== 概要 ==
福岡県西部、糸島市・福岡市の境をなす[[高祖山]](標高416メートル)の西斜面に築城された[[古代山城]]である{{Sfn|怡土城跡(平凡社)|2004}}。[[奈良時代]]の[[天平勝宝]]8年([[756年]])から[[神護景雲]]2年([[768年]])にかけて築城された中国式山城で、文献によれば[[吉備真備]]のち[[佐伯今毛人]]が築城を担当したことが知られる。これまで[[1936年]]([[昭和]]11年)以降に発掘調査が実施されている{{Sfn|国指定史跡怡土城跡|2006|pp=1-3}}。
 
城は高祖山の西斜面にたすき状に構築され、北西尾根線上・南西尾根線上に望楼跡が、西山裾に南北約2キロメートルの土塁線が遺存する。また城域からの出土遺物として、多数の瓦片・土器片・塼片などが検出されている。他の古代山城(朝鮮式山城・[[神籠石|神籠石系山城]])が[[飛鳥時代]]の[[天智天皇]]2年([[663年]])の[[白村江の戦い]]頃の築城とされるのに対して奈良時代の築城である点で特色を示すほか、文献上で築城担当者・築城期間が明らかな点、他の古代山城のような朝鮮式山城でなく大陸系の中国式山城である点でも重要視される遺跡になる<ref name="糸島市">[http://www.city.itoshima.lg.jp/s033/010/020/010/110/050/itojou-ato.html 怡土城跡](糸島市ホームページ)。</ref>。
56行目:
 
=== 中世 ===
[[中世]]期には当地を治めた[[原田氏]]が怡土城を再利用して[[高祖城]]を築城した{{Sfn|新修志摩町史 上巻|2009|pp=259-265}}。この高祖城の築城時期は詳らかでないが、古くは[[文和]]2年([[1353年]])と推定される古文書に「原田城」の記載が見え、その後の変遷を経て、[[天正]]15年([[1587年]])に[[豊臣秀吉]]の[[九州征伐]]により開城のち廃城している<ref>「高祖城跡」『日本歴史地名大系 41 福岡県の地名』 平凡社、2004年。</ref>{{Sfn|国指定史跡怡土城跡|2006|pp=88-101}}。
 
=== 近代以降 ===