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{{quotation|之は陸海作戦の不一致にあると思ふ。沖縄は本当は三ケ師団で守るべき所で、私も心配した。梅津は初め二ケ師団で充分と思ってゐたが、後で兵力不足を感じ一ケ師団を増援に送り度いと思った時には巳に輸送の方法が立たぬといふ状況であった。所謂特攻作戦も行つたが、天候が悪く、弾薬はなく、飛行機も良いものはなく、たとへ天候が幸ひしても、駄目だつたのではないかと思ふ。特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざるを得ざる処に無理があつた。海軍は「レイテ」で艦隊の殆んど全部を失ったので、とっておきの大和をこの際出動させた。之も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した。陸軍が決戦を延ばしてゐるのに、海軍では捨鉢の決戦に出動し、作戦不一致、全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった。詳い事は作戦記録に譲るが、私は之が最后の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏も亦已むを得ぬと思った。|[[昭和天皇独白録]]<ref>{{Harvnb|寺崎英成『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』|1991|pp=113-114}}</ref>}}
 
以上の様に沖縄戦の敗戦は日本に『一撃講和』は幻影にしか過ぎない事を知らしめたが、ソ連は[[ヤルタ会談|ヤルタの密約]] で既に対日参戦を決めており、ソ連を仲介とした講和は実現せず、日本が降伏するまでには、なお8月の[[広島市への原子爆弾投下|広島]]・[[長崎市への原子爆弾投下|長崎]]への[[原子爆弾]]投下、[[ソ連対日参戦]]などの悲劇を経なければならなかった。
 
勝者であったアメリカ軍も、当初の計画は1か月で沖縄を攻略する計画であったのに対し、莫大な物量を投入しながら実際にはその3倍の期間を要し予想外の大損害を被る事になった。<ref>[[五百籏頭真]](著)『日米戦争と戦後日本』講談社学術文庫 102頁</ref>(詳細は[[#戦闘経過]]を参照)