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'''ズヴィアド・ガムサフルディア'''('''Zviad Gamsakhurdia'''、ზვიად კონსტანტინეს ძე გამსახურდია、[[1939年]][[3月31日]] - [[1993年]][[12月31日]])は、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ジョージア (国)|グルジア(現・ジョージア)]]の[[政治家]]、[[作家]]、[[文学者]]。[[ミングレル人|ミングレル]]系である。民主的に選出された最初の[[ジョージアの大統領一覧|グルジア大統領]]だが、[[独裁者]]とも評される。
 
[[1965年]]から教会の活動に参加し、[[トビリシ]]のシオニ教会会議議員となった。[[1970年代]]始めからグルジア作家連盟会員。
 
[[1974年]]から[[モスクワ]]の人権擁護家と関係を維持し、人権擁護会報「現行の事件記録」にグルジア国内の事件を定期的に掲載した。同年、「グルジア人権擁護イニシアチブ・グループ」を創設。[[アムネスティ・インターナショナル|国際アムネスティ]]・ソビエト・グループ会員。[[1975年]]5月から[[グルジア語]]の文学雑誌「オクロス・サツミシ」(金の羊毛)の編集長。[[1976年]]から、[[メラブ・コスタワ]]と共同でもう1つのグルジア語雑誌サカルトヴェロス・モアンベ(グルジア通報)を発行。1976年1月からグルジア・[[ヘルシンキ宣言 (全欧安全保障協力会議)|ヘルシンキ・グループ]]会員。
 
[[1977年]][[4月7日]]、コスタワと共に逮捕され、[[1978年]]夏、[[ダゲスタン共和国|ダゲスタン]]に2年間追放の刑を宣告される。[[1979年]]6月、特赦。帰国後、グルジア科学アカデミー・グルジア文学研究所で先任科学職員として働く。
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[[1988年]]〜[[1991年]]、聖イリヤ・プラヴェドヌイ協会共同議長、「円卓-自由グルジア」(グルジア円卓会議)ブロックの指導者。[[1990年]]11月からグルジア[[最高会議]]議長。[[1991年]][[5月26日]]初代のグルジア大統領に選出される。民主派、改革派として政治的経歴を重ねたガムサフルディアであったが、政権掌握後は次第に独裁的な政治手法に終始し、野党からは独裁者と非難を浴びた。
 
[[1992年]][[1月6日]]、[[クーデター]]によりグルジアから追放され、[[チェチェン共和国]]へ亡命した。[[1993年]]9月に帰国したが、同年[[12月31日]]、グルジア西部のサメグレロで戦死。後にチェチェンの首都[[グロズヌイ]]に埋葬された。しかし、その後始まった[[チェチェン戦争]]によってガムサフルディアの墓は紛失し、行方が分からなくなっていたが、2007年に墓の場所が明らかになり、遺体は[[検視]]の後に改葬のためグルジアに運ばれた。改葬式は[[トビリシ]]の[[教会]]で行われ、当時の大統領[[ミヘイル・サアカシュヴィリ]]や多くの市民が参列した。
 
ガムサフルディアの最期をテーマにした『ヒブラ村』という映画が制作され、[[日本]]の[[岩波ホール]]で2017年に公開された<ref>[https://www.iwanami-hall.com/topics/fes/1987 ヒブラ村(ジョージア映画祭作品情報)]岩波ホール(2018年06月10日)2019年4月8日閲覧。</ref>。
[[エドゥアルド・シェワルナゼ]]政権では独裁者だったとして否定的に評価されていたが、近年、グルジアを分裂から救おうとした「ナショナリスト」として名誉回復されており、大統領経験者で自身も強硬なグルジア・ナショナリストとして知られるサアカシュヴィリ前大統領も「立派な政治家であり、愛国者だった」と称賛している。
大統領在任中にはトビリシの幹線道路にガムサフルディアの名を冠したり、シェワルナゼ政権下で拘束されていたガムサフルディアの支持者32人を釈放している。
 
[[エドゥアルド・シェワルナゼ]]政権では独裁者だったとして否定的に評価されていたが、近年、グルジアを分裂から救おうとした「ナショナリスト」として名誉回復されており、いる。大統領経験者で自身も強硬なグルジア・ナショナリストとして知られるサアカシュヴィリ前大統領も「立派な政治家であり、愛国者だった」と称賛している。
== パーソナル ==
大統領在任中にはトビリシの幹線道路にガムサフルディアの名を冠したり、シェワルナゼ政権下で拘束されていたガムサフルディアの支持者32人を釈放したりしている。
 
== 家族と経歴 ==
父は著名な文学者[[コンスタンチン・ガムサフルディア]]。妻帯、3児を有した。
 
[[トビリシ大学]]西欧言語学部を卒業。哲学科学博士。
 
==脚注・出典==
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