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19世紀に誕生し、義務・無償・中立性を基調とする近代学校は、その国の[[国語]]、国史、国民道徳の教育をメインにし、その[[国家]]の ”[[国民]]” を育成する装置として機能した。つまり、国民としての”[[アイデンティティ]]の形成”<!-- (人々の多様性を抑え込み、似たような性質 ”同一性”を持たせること)-->が学校に期せられたのである<ref>[[ピエール・ノラ]]『記憶の場』</ref>。学校教育の拡大と[[義務教育]]制度の普及により、[[20世紀]]からは学校の数が飛躍的に増大した。
 
===日本===日本では、[[平安時代]]に[[貴族]]の子供<ref>教科書などでは一般に「貴族の子弟」と表現されている。子弟とは、簡単に言えば、子供や息子のこと。</ref>の教育機関として「'''[[大学寮]]'''」という名称の<ref>今の「大学」とは別物である。</ref>学校が存在した。また、[[寺院]]などを中心に[[教育研究]]のための施設が設けられることがあった。
===日本===
二本では、[[平安時代]]に[[貴族]]の子供<ref>教科書などでは一般に「貴族の子弟」と表現されている。子弟とは、簡単に言えば、子供や息子のこと。</ref>の教育機関として「'''[[大学寮]]'''」という名称の<ref>今の「大学」とは別物である。</ref>学校が存在した。また、[[寺院]]などを中心に[[教育研究]]のための施設が設けられることがあった。
 
平安時代の教育は、原則として貴族や郡司の子供らを対象にしており、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、[[空海]]は、『綜藝種智院式并序』を著し、全学生および教員への給食制を完備し、身分や貧富に関わりなく学ぶことのできる教育施設、あらゆる思想や学芸を総合的に学ぶことのできる教育施設を設立することを提唱した。その運営を実現するため、天皇、諸侯、仏教諸宗の高僧ら、および一般の人々などに協力を呼びかけた。そして、東寺の東にあった[[藤原三守]]の私邸を譲り受け、[[828年]]に「'''[[綜芸種智院]]'''」を開設した、とされる。綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた点で画期的な学校であったとされる。