「柳沢氏」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2017年6月}}
{{日本の氏族
|家名= 柳沢氏
|家紋= Japanese Crest Yanagisawa Hanabisi.svg
|家紋名称= <span style="font-size:70%">やなぎさわ はなびし</span><br />柳沢花菱
|本姓= [[清和源氏]][[源義光|義光流]][[武田氏|武田氏一族]]{{sup|[異説あり]}}<br/>[[青木氏]]?
|家祖= [[柳沢信俊]]
|種別= [[武家]]<br/>[[華族]]([[伯爵]])
|出身地= [[甲斐国]]武川筋
|根拠地= 甲斐国武川筋<br/>[[大和国]]
|人物= [[柳沢吉保]]
|支流= [[柳沢吉次]]流柳沢家([[武家]])<br/>[[郡山藩|郡山藩主家]](武家)<br/>[[黒川藩|黒川藩主家]](武家)<br/>[[三日市藩|三日市藩主家]](武家)
}}
'''柳沢氏'''(やなぎさわし)は、[[日本]]の[[氏族]]。[[武士]]の[[家系]]。[[甲斐国|甲斐]][[武田氏]]の遺臣で、[[近世]]には[[柳沢吉保]](房安、保明)が将軍[[徳川綱吉]]に仕え、甲府城主15万1200石となる。
 
 
== 概要 ==
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なお、柳沢家と武田氏宗家の[[高家 (江戸時代)|高家]]武田家とは密接な関係にあり、吉保は[[武田信玄]]の次男龍芳([[海野信親]])の子孫を高家として復活させている{{Sfn|大嶌|2005|p={{要ページ番号|date=2018年10月}}}}。また、[[武田信明]]、[[武田信之 (高家)|信之]]、信保(柳沢保申の次男)が養子入りして武田家当主を継いでおり、信保の血筋で現在に至っている。
 
[[2010年]][[11月2日]]、柳沢氏発祥の地に当たる現在の[[山梨県]][[北杜市]]武川町柳沢に「柳沢氏発祥の地」碑が建立され、除幕式が行われた{{Sfn|八ヶ岳|2010|}}。
 
[[ファイル:Bunkyo Rikugien Panoramic View In Late Autumn 1.JPG|thumb|250px|六義園]]
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柳沢氏の系図では『[[寛永諸家系図伝]]』『[[寛政重修諸家譜]]』所載の柳沢家系図が知られる。『寛永譜』では柳沢氏は[[青木氏]]から派生したものとし、[[武田信縄]]・[[武田信虎|信虎]]期に仕えた[[青木信定]](青木尾張守)を初代とし、孫にあたる信俊の頃に柳沢氏を称したとしている。『寛永譜』において柳沢氏は他家との接点が無かったが、『寛政譜』においては旗本青木家と結び付けられている。『寛政譜』所収系図は柳沢吉保子孫に伝わる系図を基に作製したものとし、信興・信俊の代において青木家系図と結び付けられ、遠祖を武田氏庶流[[甲斐一条氏]]の[[一条時信]]に遡らせている。
 
[[奈良県]][[大和郡山市]]の[[柳沢文庫]]には、[[郡山藩]]主時代の柳沢家に伝来した家系図が伝来しており、多くは年記がなく系統が不明であるが、このうち『[[尊卑分脈]]』『武田源氏一統系図』を基に作製された「清和源氏武田流甲斐国主系図」は柳沢家において重要視されていた系図で、[[武田家系図]]から一条家・青木家を経て柳沢家系図が記され、吉保の代に新規大名として成立した柳沢家の権威向上などを意図し、武田家の後継者とする意図で編纂されたものであると考えられている{{Sfn|西川|2009|p={{要ページ番号|date=2018年10月}}}}。
 
=== 略系図 ===
; 太字は当主、実線は実子、点線は養子。[ ]内は、当主とならなかった人物。
 
==== 宗家 ====
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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{{Notelist}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
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== 関連項目 ==
* [[六義園]]
 
 
{{DEFAULTSORT:やなきさわし}}