「後藤三右衛門」の版間の差分

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[[後藤庄三郎]]家は[[慶長]]時代から[[徳川氏]]に仕え、[[金座]]や[[銀座 (歴史)|銀座]]を支配した商家であったが[[文化 (元号)|文化]]7年([[1810年]])に取り潰され、分家の[[後藤方至|三右衛門方至]]がその地位を継いだ。文化13年([[1816年]])、[[信濃国]][[飯田城 (信濃国)|飯田城下]]大横町の商人である林弥七言政の四男、奥輔が方至の婿養子となり三右衛門家を継ぎ、金座御金改役となった。その際、奥輔から光亨に改名している。光亨は文化5年([[1808年]])から3年間上洛し、[[猪飼敬所]]に[[漢学]]、[[経学]]を学んだ。
 
文政2年([[1819年]])に[[貨幣改鋳]]を実施し、[[文政小判]]の鋳造を開始した。[[老中]]の[[水野忠邦]]が台頭すると[[鳥居耀蔵]]や[[渋川敬直]]と共に「水野の三羽烏」と呼ばれ、経済面でのブレーンとなり、[[天保通宝]]を鋳造を建策し、[[天保]]6年([[1835年]])閏9月より鋳造が開始された。[[寛永通宝]]一文銭のおよそ8枚分の重量にして百文銭とする天保通宝は高く評価され、短期間で大量に鋳造され、後藤家に多くの収益をもたらした。天保8年([[1837年]])、再び改鋳を実施し、[[天保小判]]・[[五両判|天保五両判]]の鋳造を開始した。これらの改鋳によって、幕府には多大な改鋳利益がもたらされた。
 
天保13年([[1842年]])、物価高の原因は天保[[二朱金]]や天保小判のような悪貨発行の連発にあるとする上申書を忠邦に提出した。物価の高騰はもとより忠邦による[[天保の改革]]の趣旨に反することからこの上申が容れられ天保小判の鋳造は一時中断するが、天保14年(1843年)9月の老中首座であった忠邦の失脚により天保15年([[1844年]])9月から鋳造が再開された。