「藤原宮子」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎略歴: 誤字修正
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
→‎略歴: 誤字修正、文章訂正
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
6行目:
大宝元年(701年)、首(おびと)皇子(後の[[聖武天皇]])を出産したものの心的障害に陥り、その後は長く皇子に会うことはなかった。文武や父不比等ら肉親の死を経て、723年に[[従二位]]に叙され、首皇子が即位した翌724年には[[正一位]]、大御祖(文書では[[皇太夫人]])の称号を受けたが病は癒えず、[[737年]]にやっと平癒、息子天皇と36年ぶりに対面した。そして、孫阿倍内親王が即位([[孝謙天皇]])した[[749年]]には[[太皇太后]]の称号を受け、754年に崩御した。享年70前後と推定される。
 
長く苦しむこととなる病気にかかりながらも、跡継ぎを生み、天皇の后としての最低限の役割は果たした宮子であったが、その跡継ぎである聖武天皇には[[安積親王]]しか男子がおらず、その安積親王薨去後はついに男子の跡継ぎが生まれず、一族[[藤原氏]]と他氏貴族との権力闘争などもあいまって、崩御後20年も経たないうちに[[天武天皇|天武]]皇統は事実上断絶してしまうこととなった。
 
なお、病気回復の時に関わった僧侶が[[玄ボウ|玄昉]]であり、[[橘諸兄]]のもとで玄昉が権力を振るったのはこの功績によるものと考えられる。