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[[享禄]]3年([[1530年]])に円誉が当寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより、本寺は浄土宗の寺となる。釈迦堂(本堂)は、[[慶長]]7年([[1602年]])に[[豊臣秀頼]]によって寄進・造営されたが、その後、嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍は被災し、また、大地震の被害もあり伽藍の破損は甚大となる。
 
本寺の釈迦像は、前述のとおり、10世紀に中国で制作されたものであるが、中世頃からはこの像は模刻像ではなく、インドから来された栴檀釈迦像そのものであると信じられるようになった<ref>塚本俊孝「嵯峨釈迦仏の江戸出開帳について」『釈迦信仰と清凉寺』(特別展図録)p.14</ref>。こうした信仰を受け、[[元禄]]13年([[1700年]])より、本尊の[[江戸]]に始まる各地への出開帳が始まる。また、[[徳川綱吉]]の母である[[桂昌院]]の発願で、伽藍の復興がおこなわれた。
このように、三国伝来の釈迦像は信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて栄えた。一方、母体であった棲霞寺は次第に衰微したが、今に残る阿弥陀堂や、阿弥陀三尊像(国宝、現在は霊宝館に安置)に、その名残りをとどめる。