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小学校3年生の時に野球を始め、佐賀関中学校時代はエースとして活躍した。
 
[[大分県立大分商業高等学校|大分商業高校]]では、[[1967年]]、3年生の時にムの主戦として[[第49回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]に出場。1回戦(対[[北海道網走南ヶ丘高等学校|網走南ヶ丘]])と2回戦(対[[福岡県立小倉工業高等学校|小倉工]])で連続完封という快投を演じ、大分商を8強へ導いたずるだが、準々決勝では[[和歌山市立和歌山商業高等学校|市和歌山商]]打線にメッタ撃ちされて(18被の[[野上俊夫]]と投げ合うが、18安打)5を喫し5-19と大敗、ベスト4進出は成らなかった<ref>「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年</ref>。秋の[[第22回国民体育大会|埼玉国体]]は決勝に進むが、[[埼玉県立大宮高等学校|大宮高]]の[[金子勝美]]に抑えられ準優勝にとどまる。この国体で[[東奥義塾高等学校|東奥義塾]]の高木選手に本塁打されたのが「野球を始めてから初めて」だったと言う。
 
この年の秋、[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]から[[1967年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]で1位指名を受け入団。もともとオーバースローの本格右腕であったが、入団後にサイドスローに修正された。
 
プロ初1度は目の[[1968年]]から一軍に上がり、7月から先発としても起用されるが未勝利に終わったが、2る。翌[[1969]]は先発陣の一角3年目して活躍、[[8月5日]]にはそれぞれ[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]を相手に初完封を飾るなど12勝・13勝を挙げる活躍を見せて。[[1970年]]は[[黒霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]によって[[池永正明]]をはじめ主力投手4人が永久追放処分を受ける。この苦境の中で[[東尾修]]とともに投手陣を牽引し13勝を記録するが、一方で1970年・チーム力の低下は否めず、リーグ最多の19敗を喫する。翌[[1971年]]は[[高橋明 (投手)|高橋明]]の移籍入団があったもののチーム事情は変わらず、4勝16敗に終わる。[[シフィック・リーグ|パ・リーグ]]では、[[1956年]]の[[米川泰夫]]以来の連続リーグ最多敗戦投手を記録)した。2年目から4年連続で40試合以上投げるなど、[[稲尾和久]]が衰え、引退した後のライオンズの主力投手の一員として頑張った。[[1973年]]はアメリカ1A・ローダイ・ライオンズに野球留学。[[1974年]]には復帰し、5勝10敗の記録を残す
[[1973年]]は、アメリカ1A・ローダイ・ライオンズに野球留学をした。
 
その後、[[1974年]]オフに[[江藤慎一]]との交換トレードで[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]へ移籍。[[野球評論家]]の[[小西得郎]]は「将来の大洋のエース」と太鼓判を押した。フォームを横手からやや上にモデルチェンジし、[[1975年]]27試合に登板し2勝を挙げるも、故障の悪化もあり在籍わずか1年で引退する事となった。
 
現在は地元・大分市で肉料理の店などを経営する傍ら、「大分ソーリンズ野球倶楽部」でヘッドコーチを務めているという。