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秀秋は慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では当初、西軍として[[伏見城の戦い]]に参加した後、本戦では1万5,000<ref>[[参謀本部 (日本)|旧参謀本部]]『日本戦史』</ref>{{Refnest|group="注釈"|8,000とする資料もある<ref>『関原軍記大成』、『改正三河後風土記』</ref>。}}の軍勢を率い、関ヶ原の南西にある[[松尾山 (岐阜県)|松尾山]]に陣を敷いていた[[伊藤盛正]]を追い出してそこに布陣した。
 
関ヶ原本戦が始まったのは午前8時ごろであり、午前中は西軍有利に戦況が進展する中、傍観していた。度々使者を送ったにも関わらず傍観し続ける秀秋に家康は苛立っていた<ref>『黒田家譜』による</ref>といい、秀秋の陣へ[[鉄砲]]を撃ち掛けたとも言う。ただし、[[藤本正行]]は当時の信用できる史料で威嚇射撃は裏付けることはできないとして、家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいないとする<ref>{{Cite journal |和書 |author = 藤本正行 |title = 関ヶ原合戦で家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいない |year = 1984 |month= 2 |journal = 歴史読本 |issue = 特別増刊 |naid = }}</ref>。また現代の実地調査では、地理的条件や当時使用されていた銃の銃声の大きさや、現場は合戦中であり騒々しいことから推測すると、秀秋の本陣まで銃声は聞こえなかった、もしくは家康からの銃撃であるとは識別できなかった可能性が高いことも指摘されている<ref>{{Cite book|和書 |author = 三池純正 |date = 2007-05 |title = 敗者から見た関ヶ原合戦 |publisher = [[洋泉社]] |isbn= 978-4862481467}}</ref>。更に近年では一次史料(「慶長5年9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状」など)より、関ヶ原本戦開始は午前10時ごろで、秀秋の離反もその直後であった(傍観の事実も家康による催促の事実もない)とする見方も浮上している<ref>{{Cite book|和書|author=白峰旬|title=関ヶ原合戦の真実』(|publisher=宮帯出版社、2014年)|year=2014}}</ref>(詳細は[[関ヶ原の戦い#一次史料による合戦当日の記録]]参照のこと)。
 
こうしたやり取りはありながらも、秀秋は最終的には家康の催促に応じ、松尾山を下り、西軍の[[大谷吉継]]の陣へ攻めかかった。この際、小早川勢で一手の大将を務めていた[[松野重元]]は主君の離反に納得できなかった為、無断で撤退している。秀秋に攻めかかられた大谷勢は寡兵ながらも[[平塚為広]]・[[戸田勝成]]とともによく戦って小早川勢を食い止めたが秀秋の離反から連鎖的に生じた[[脇坂安治]]・[[朽木元綱]]・[[小川祐忠]]・[[赤座直保]]らの離反を受け、吉継・為広・勝成の諸将は討死した。