「マクルズフィールド伯爵」の版間の差分
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== 歴史 ==
[[イングランド貴族]]としての最初の創設は[[1679年]]で、兵士であり政治家であった初代ジェラード男爵[[チャールズ・ジェラード (初代マクルズフィールド伯爵)|チャールズ・ジェラード]] ([[:en:Charles Gerard, 1st Earl of Macclesfield|Charles Gerard, 1st Baron Gerard]]) のためにこの爵位が設けられた。ジェラードは既に、[[1645年]]に[[サフォーク]]州[[ブランドン]] ([[:en:Brandon, Suffolk|Brandon]]) のジェラード男爵として叙爵されていたが、伯爵位の叙爵とともに、ブランドン子爵 (Viscount Brandon)
2度目は、[[グレートブリテン貴族]]としてこの伯爵位が再度創設された[[1721年]]のことで、有名な法律家であった[[トマス・パーカー (初代マクルズフィールド伯爵)|初代パーカー男爵トマス・パーカー]]が、「[[オックスフォードシャー|オックスフォード]]州 [[エウェルム]]の'''パーカー子爵''' ({{lang|en|'''Viscount Parker''', of [[:en:Ewelme|Ewelm]] in the County of Oxford}})」および「
第2代の死去によって、爵位は長男が襲爵した。第3代伯爵は、襲爵以前に[[ニューカッスル・アンダー・ライム選挙区|ニューカッスル・アンダー・ライム]] ([[:en:Newcastle under Lyme (UK Parliament constituency)|Newcastle under Lyme]])、[[オックスフォードシャー選挙区|オックスフォードシャー]] ([[:en:Oxfordshire (UK Parliament constituency)|Oxfordshire]])、[[ロチェスター選挙区|ロチェスター]] ([[:en:Rochester (UK Parliament constituency)|Rochester]]) から選出されて、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員となったことがあった。第3代伯爵の跡は、長男が第4代として襲爵した。優れた政治家で、[[1816年]]から[[1818年]]にかけて、農業省大臣 (President of the Board of Agriculture) を務めた。第4代の死去後、爵位は弟が第5代として襲爵した。第5代の跡は、その息子が第6代として襲爵した。第6代伯爵は、襲爵以前に[[オックスフォードシャー選挙区|オックスフォードシャー]] ([[:en:Oxfordshire (UK Parliament constituency)|Oxfordshire]]) から選出されて、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員となり、[[保守党 (イギリス)|保守党]]に所属していた。第6代の跡は、その孫が第7代として襲爵した。第7代伯爵は、第6代伯爵の長男であったパーカー子爵([[儀礼称号]])ジョージ・オーギュスタス・パーカー (George Augustus Parker) の息子であった。このマクルズフィールド卿は、[[1954年]]から[[1963年]]まで、[[地方長官 (イングランド)|地方長官]] ([[:en:Lord Lieutenant|Lord Lieutenant]]) の任にあった。2014年現在、この爵位を保持しているのは、[[1992年]]に父である第8代の跡を襲爵した、第7代伯爵の孫にあたる第9代伯爵である。
[[カミラ (コーンウォール公爵夫人)|コーンウォール公爵夫人カミラ]]の最初の夫であった[[アンドリュー・パーカー・ボウルズ]][[准将#イギリス|准将]]は、母方の姓を継いだデレク・ヘンリー・パーカー=ボウルズ (Derek Henry Parker-Bowles) の息子であり、第6代伯爵の三男アルジェモン・ロバート・パーカー師 (Reverend the Hon. Algernon Robert Parker) の孫であった。このため、パーカー・ボウルズ准将は、この伯爵位およびこれに付随する爵位と、遠いながらも縁があることになる。また、第6代伯爵の次男セシル・トマス・パーカー師 (Cecil Thomas Parker) の息子であるウィルフレッド・パーカー師 (the Right Reverend Wilfred Parker, 1883 - 1966) は、[[プレトリア]][[主教]]を務めた。
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