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[[1854年]]、[[冊封国]][[チャクリー王朝|暹羅]](シャム)が朝貢を廃止すると共に不平等条約の[[ボーリング条約]]を結んだ。[[1872年]]、日本の[[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]]により清と[[薩摩藩]]の両者に朝貢していた[[琉球王国|琉球]]は、日本に合併された。[[1884年]]、[[インドシナ半島]]の[[植民地]]化を進めるフランスに対抗し、対[[阮朝|越南]]([[ベトナム]])宗主権を維持しようとして[[清仏戦争]]( - [[1885年]])が起きたが、[[天津条約 (1885年6月)|清仏天津条約]]によって冊封国越南はフランスの植民地となった。[[1886年]]、[[コンバウン王朝|緬甸]](ビルマ)は3度目のイギリス軍の侵略を被り滅亡した。清への臣従を拒む勢力が擡頭した[[李氏朝鮮|朝鮮]]に対しては、宗主国としての内政権を揮い[[壬午事変]]([[1882年]])、[[甲申政変]]([[1884年]])を鎮圧したが、[[1894年]]に[[大日本帝国|日本]]が起こした[[甲午改革]]では、鎮圧を企図したものの[[日清戦争]]( - [[1895年]])で敗北し、[[下関条約]]によって[[遼東半島]]および{{仮リンク|福建台湾省|zh|福建台灣省}}の割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、建国以来維持していた李氏朝鮮に対する広範な支配権も失った(ただし朝鮮・[[大韓帝国]]における清領租界は[[日韓併合]]後も清国が確保している)。
 
「眠れる獅子」と言われた清が日本にあえなく敗北する様子を見た欧州列強は、日本が課した巨額の[[賠償金]]支払債務に目をつけた。まず[[フランス第三共和政|フランス共和国]]、[[ドイツ帝国]]、[[ロシア帝国]]はいわゆる「[[三国干渉]]」を通じて日本に遼東半島返還を迫るとともに代償として賠償金の大幅な増額を薦めた。この事による清の財政悪化に乗じて欧州列強諸国が対日賠償金への借款供与を申し出て見返りとして租借地などの権益の縄張りを認めさせていったのが、[[1896年]]から[[1899年]]にかけての勢力分割(いわゆる「瓜分」)であった。[[満州|満洲]]から[[モンゴル]]をロシア、[[長江]]流域を[[イギリス]]、[[山東省]]をドイツ、[[広東省]]・[[広西省]]をフランスが{{仮リンク|[[勢力圏|en|Sphere of influence}}]]とした。同じく、イギリスは[[九龍半島]]([[香港総督]]管轄)と[[威海衛]]、フランスが[[広州湾]]、ドイツが[[青島市|青島]]([[膠州湾租借地]])、ロシアが[[旅順]]と[[大連市|大連(ダーリニー)]]([[関東州]]、{{仮リンク|極東総督|ru|Наместничество Дальнего Востока}}管轄)を[[租借地]]として、それぞれ海軍基地を築いて東アジアの拠点とした。しかもロシアは賄賂をもちい[[露清密約]]で[[東清鉄道]][[鉄道附属地|附属地]]を手に入れた。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は[[南北戦争]]による国内の混乱から出遅れたため、中国市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、[[門戸開放宣言]]を発しつつ[[国際共同租界]]設置に参加した。
 
[[李鴻章]]と[[左宗棠]]の[[海防・塞防論争]]を契機として、技術面だけの[[洋務運動]]に限界が見えてくると、政治面についても議論が活発になり、[[康有為]]・[[梁啓超]]ら若い知識人が、清も[[立憲君主制]]をとり国政の本格的な近代化を目指す[[変法自強運動]]を唱え始めた。彼ら変法派は[[光緒帝]]と結んで[[1898年]]一時的に政権を奪取した([[戊戌の変法]])が、[[西太后]]率いる保守派のクーデターに遭って失脚・幽閉された([[戊戌の政変]])。その後、西太后は[[保慶帝|愛新覚羅溥儁]](保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が[[義和団の乱|義和団]]の指導者であるため強い反発を受け、3日で廃された。