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* [[1942年]](昭和17年)1月場所の番付より、機密隠匿のため応召および入営力士の欄外張出はされなくなった。
* [[1944年]](昭和19年)11月場所後の番付編成会議は、力士の応召などの関係から次場所([[1945年]](昭和20年)5月場所)開催の1ヶ月前に行うことになった。その5月場所は空襲の影響により6月に順延となった。
* 戦後初の[[1945年]](昭和20年)11月(秋)場所の番付はザラ紙の小型版で序ノ口力士はなく、記載力士はわずか216人だった。またその次の[[1946年]](昭和21年)11月場所も序ノ口力士が1人もおらず、その次の[[1947年]](昭和22年)の番付では3場所ぶりに序ノ口力士が復活したものの、その場所のみ例外的に序二段力士と序ノ口力士が同じ下から2段目(上から4段目)に書かれた。
<!--* [[1946年]](昭和21年)11月場所は丸1年ぶりに行われた本場所だったが、横綱双葉山をはじめ、[[笠置山勝一|笠置山]]、[[玉ノ海梅吉|玉ノ海]]、[[出羽湊利吉|出羽湊]]、[[綾昇竹蔵|綾昇]]、[[若港三郎|若港]]、[[小松山貞造|小松山]]、[[有明五郎|有明]]、[[葦葉山七兵衛|葦葉山]]、[[肥州山栄|肥州山]]、[[九州山義雄|九州山]]、[[松ノ里直市|松ノ里]]、[[龍王山光|龍王山]]などが前年11月場所限りで大量に引退したため、幕内と十両で13名の力士が番付から消えた。
* 1947年6月場所の番付で、十両を1場所で新入幕を果たした[[若葉山貞雄|岩平]]は本名のまま土俵に上がったが、本名のままの幕内力士第1号だった。翌11月場所「若葉山」と改名した。また、この場所の番付で史上初めて5大関([[佐賀ノ花勝巳|佐賀ノ花]]、前田山、[[名寄岩静男|名寄岩]]、[[東富士欽壹|東富士]]、[[汐ノ海運右エ門|汐ノ海]])となった。-->