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[[213年]]、[[豫章郡|豫章]]東部の平民達が反乱を起こし、一万人ほどの規模となった。賀斉はこれを討伐し、首謀者達を斬り多くの捕虜を得た。また、降伏者の中から勇敢な者を選び出し軍団に加え、残った者は県の戸籍に編入した。この功績で賀斉は[[雑号将軍|奮武将軍]]に昇進した。
 
[[215年]]、合肥の戦いで張遼の奇襲に、先遣部隊として徐盛が負傷を被って旗指し矛を失ったが、後続にいた賀斉と潘璋に救援されたという、旗指し矛を取り戻した。賀斉が中部部隊を率いて張遼を拒ぎ撃ち、張遼がすぐに引き揚げた。逍遥津退却で[[曹操]]軍の[[張遼]]の攻撃に遭い、賀斉が助太刀役を務めた、退却してきた孫権を船に迎え入れた<ref>『[[江表伝]]』</ref>。
 
[[216年]]、[[鄱陽県|鄱陽]]の不服従民が曹操の印綬を受け反乱を起こし、陵陽・始安・涇もそれに同調すると、賀斉は[[陸遜]]と共に討伐し数千人を斬って反乱を鎮圧した。これにより丹陽の三県も降参した。また、降伏者の中から8千人の精鋭を募り、軍団に加えた。この功績で安東将軍・山陰侯となった。