「コンスタンティヌス1世」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
騎士身分と元老院身分について加筆。「これまで騎士身分のための職だった官職を元老院身分にまで解放した。これは、経済・政治的に一大勢力を築いてきた騎士身分は栄達の道を閉ざされ、これ以降歴史から姿を消していく原因となった」について、出典付の記述であるが、尚樹、井上、ティンネフェルトいずれの説明とも矛盾するため変更。
33行目:
コンスタンティヌス1世は[[モエシア]]属州のナイッスス(現:[[セルビア]]領[[ニシェ]])でローマ帝国の軍人[[コンスタンティウス・クロルス]]の息子として生まれた。父はその後、ローマ帝国で[[テトラルキア]](四帝統治)体制が形成されると西の[[カエサル (称号)|副帝]](カエサル)を務め、後に[[アウグストゥス (称号)|正帝]](アウグストゥス、在位305年-306年)となった。父が[[ブリタンニア]](現:[[イギリス]])で死亡した後、コンスタンティヌス1世はその軍団を引き継いで306年に正帝を自称し、[[312年]]に東の正帝ガレリウスから正式に正帝としての承認を獲得した。軍人として卓越した手腕を発揮し、帝国国境外の「蛮族」との戦いに従事するとともに、複数の皇帝たちの間で戦われた内戦で勝利を重ねた。306年の正帝自称以来、20年近い歳月を費やして対立する皇帝たちを打ち破り(310年に[[マクシミアヌス]]、312年に[[マクセンティウス]]、324年に[[リキニウス]])、ローマ帝国を再統一した。
 
[[3世紀の危機]]と呼ばれる長い政治的・軍事的な動乱の時代を経ていたローマ帝国では、長期にわたって内政の再編が行われていた。コンスタンティヌス1世に先立ってこの混乱を終息させたディオクレティアヌス帝(在位:284年-305年)は新しい安定した統治機構の形成を模索し、各種の改革を実施していた。単独の皇帝となったコンスタンティヌス1世はディオクレティアヌスの改革を引き継ぎ、官僚制を整備し、文官と武官を分離するなどしてこれを完成させた。内政面では、ディオクレティアヌス帝までずっと盛んになる一方だった[[エクィテス]](''equites''、騎士)身分の重職への進出に歯止めをかけ、かわりに形骸化しつつあった[[元老院 (ローマ)|元老院]]を拡充させ、騎士身分や地方有力者を多数元老院議員に任命するとともに、これまで騎士身分のための職だった官職を元老院身分にまで解放し、さらに元老院身分者を大幅に増加させた。また半公式の身分であった伯(''Comes''、総監)を公式の身分とした。これはの結果経済・政治的に一従来の元老院身分の構成員が勢力を築いてく変化するとともに、元老院身分と騎士身分は栄達の道閉ざされ内包し以降歴史から姿消していく原因となっ超え<ref>『・ローマ帝国衰亡史』p57 南川高志 岩波新書、2013.5 ISBN 4004314267</ref>たな社会的地位が形作られた。経済・社会面では、品質の安定した[[ソリドゥス金貨]]を発行した。この金貨はギリシア語で[[ノミスマ]]と呼ばれ、その後地中海世界で最も信頼される貨幣として流通することになる。大事業を次々起こし、彼に由来する多くの都市や建造物が残されている。これを支えるために多額の財政出動が必要となったことから、徴税に力が入れられ、[[コロヌス]]の移動を禁止、身分を固定化することで農地からの収入安定を図った<ref name="長谷川樋脇2010p118">[[#長谷川・樋脇 2010|長谷川・樋脇 2004]], p. 118</ref>。これらの施策はその後の西欧中世社会の原型の一部をも形作った<ref name="長谷川樋脇2010p118"/>。
 
宗教の面では、ローマ帝国においてたびたび迫害されていたキリスト教を庇護し、コンスタンティヌス1世自身もキリスト教に改宗した。彼がキリスト教を受容したことは、未だ多数ある宗教の1つであったキリスト教がローマ帝国領内で圧倒的な存在となる契機となり、その後の[[地中海世界]]、[[ヨーロッパ]]の歴史に重大な影響を与えた。統一以前にリキニウスと共に313年発布したいわゆる『[[ミラノ勅令]]』はしばしば'''ローマ帝国においてキリスト教を公認'''したものとみなされる。コンスタンティヌス1世がキリスト教に好意的であった理由や、その改宗の動機ははっきりとはわかっていない。初のキリスト教徒ローマ皇帝であったコンスタンティヌス1世は、[[ドナトゥス派]]や[[アリウス派]]のようなキリスト教の分派の問題に直面した最初の為政者でもあり、教会の分裂の収拾に取り組んだ。またその過程で非正統宗派への弾圧にも初めて手を付けた。[[325年]]にキリスト教の歴史で最初の全教会規模の公会議([[第1ニカイア公会議]])を招集した。この会議とその後の経過によってニカイア派([[アレクサンドリアのアタナシオス|アタナシウス派]])が正統の地位を占めていく。
206行目:
 
そして、後世から見て重要な影響を与えたかもしれないコンスタンティヌス1世の軍事上の処置に[[ゲルマン人]]を始めとした「蛮族」の大規模な徴兵がある。既に306年に父親から引き継いだ野戦軍をマクセンティウスとの戦いに十分な規模にするために蛮族の捕虜を組み込んでいた<ref name="ランソン2012p72">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 72</ref>。こうした処置はコンスタンティヌス1世が初めてだったわけではないが、彼のゲルマン人の動員は過去のものよりも大規模なものであった<ref name="ランソン2012p72"/><ref name="ジョーンズ2008p220"/>。スコラ隊もゲルマン人の兵たちを中心に構成されており、ゲルマン人を軍司令官として、更には執政官([[コンスル]])として任命することもした<ref name="ジョーンズ2008p220"/>。こうした処置はローマ帝国を蛮族で汚したものとして、後の皇帝[[ユリアヌス]]や異教徒の歴史家[[ゾシモス]]らから非難されている<ref name="ランソン2012p72"/><ref name="ジョーンズ2008p220"/>。ただし、少なくともコンスタンティヌス1世の時代には新たに軍団に導入されたゲルマン人たちはローマの指揮官に、またはゲルマン人であったとしてもその部族と特別の関係を有していない指揮官によって統率されており、当時においてローマ帝国に重大な問題は引き起こさなかった<ref name="ジョーンズ2008p220"/>。ゲルマン人の軍事力の利用がローマ帝国の統一にとって実際的な問題となるのは、彼らが「部族丸ごと」[[フォエデラティ|同盟軍]](''Foederati'')として組み込まれるようになってからである<ref name="ジョーンズ2008p220"/>。
 
==== 騎士身分と元老院身分 ====
[[共和制ローマ|共和制]]期以来、ローマの国家機構において主導的地位にあった[[元老院]]は3世紀の危機を通じて皇帝が前線に常駐するようになると、次第に国政の中枢から外れていった<ref name="井上2015p190">[[#井上 2015|井上 2015]], p. 190</ref>。これは元老院身分(''Ordo senatorius'')の上級官職者が軍人としての経歴を持っておらず、むしろ文人志向を強め軍事を忌避する傾向があったため、継続的な外敵の侵入と内乱の中で、より実戦能力のある人材が統治機構に必要であったことによる<ref name="井上2015pp144,190">[[#井上 2015|井上 2015]], pp. 144, 190</ref>。また、行政機構が皇帝と共に前線にあったため、物理的にも元老院議員と行政機構の関わりが薄くなっていた<ref name="井上2015p190"/>。変わって軍才を見込まれた人々が皇帝たちによって要職に登用されるようになり、彼らはその後婚姻によって結びつき新たな軍事貴族階層を形成していた<ref name="井上2015p190"/><ref name="尚樹1999p36">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 36</ref>。彼らは騎士身分([[エクィテス]]、''Equites'')と称され、元老院身分と異なり元来は世襲のものではなく、近衛長官に与えられるエミネンティッシムス級(''Vir minentissimus''、侯爵<ref name="豊田1994p80注釈10">和訳は[[#豊田 1994|豊田 1994]], p. 80、注釈10番による。</ref>)を最高位とする5段階の爵位が役所育に応じて皇帝から贈られていた<ref name="尚樹1999p36"/>。
 
コンスタンティヌス1世は各地の総督や上級官職に再び元老院身分に再び開放し、また人員自体が大幅に拡充された<ref name="井上2015p195">[[#井上 2015|井上 2015]], p. 195</ref>。「元老院議員が担当する」官職に非元老院議員が就任した時には、その人物に元老院身分が付与されたため、このことは元老院身分の構成員に変化をもたらした<ref name="井上2015p195"/>。この結果従来騎士身分にいた軍事貴族たちが元老院身分(新貴族階級)へと参入していったが、形式的には同じ元老院身分であった両者は質的に統合されることはなく、さらに従来元老院身分の爵位であったクラリッシムス級(''Clārissimus'')を頂点とする爵位の価値が暴落して意味をなさなくなって行き、元老院身分の新たな爵位制度が準備された<ref name="尚樹2005p38">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 38</ref>。
 
また、コンスタンティヌス1世は新たな身分として'''伯'''(''Comes''、総監とも)を創設した。この名称は旧来から皇帝たちの指摘な助言者を指して半ば公式的に使用されていたが、コンスタンティヌス1世はこれを完全に公式の身分とした<ref name="尚樹2005p37">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 37</ref>。子の地位は1等から3等までに分類され、枢密院の構成員から軍の司令官、地方組織の長官にいたるまで伯と呼ばれるようになった<ref name="尚樹2005p37"/>。この身分は従来の元老院身分、騎士身分にあり新たに元老院身分にも参入しつつあった軍事貴族たち、そしてそしてそのいずれにも属さない人々の間を貫通する新たな地位を形作って行き<ref name="尚樹2005p37"/>、さらに後には[[フランク王国]]や[[西ゴート王国]]など、中世西欧の諸国にも形を変えながら引き継がれていく。
 
==== 経済・財政 ====