「コンスタンティヌス1世」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
参考文献の整理。
m →‎概略: 誤字修正。
37行目:
宗教の面では、ローマ帝国においてたびたび迫害されていたキリスト教を庇護し、コンスタンティヌス1世自身もキリスト教に改宗した。彼がキリスト教を受容したことは、未だ多数ある宗教の1つであったキリスト教がローマ帝国領内で圧倒的な存在となる契機となり、その後の[[地中海世界]]、[[ヨーロッパ]]の歴史に重大な影響を与えた。統一以前にリキニウスと共に313年発布したいわゆる『[[ミラノ勅令]]』はしばしば'''ローマ帝国においてキリスト教を公認'''したものとみなされる。コンスタンティヌス1世がキリスト教に好意的であった理由や、その改宗の動機ははっきりとはわかっていない。初のキリスト教徒ローマ皇帝であったコンスタンティヌス1世は、[[ドナトゥス派]]や[[アリウス派]]のようなキリスト教の分派の問題に直面した最初の為政者でもあり、教会の分裂の収拾に取り組んだ。またその過程で非正統宗派への弾圧にも初めて手を付けた。[[325年]]にキリスト教の歴史で最初の全教会規模の公会議([[第1ニカイア公会議]])を招集した。この会議とその後の経過によってニカイア派([[アレクサンドリアのアタナシオス|アタナシウス派]])が正統の地位を占めていく。
 
優秀な軍人であったコンスタンティヌス1世は軍事面でも多くの改革を実施した。この改革によって[[プラエトリアニ|近衛軍団]](''praetorianaePraetorianae''、プラエトリアニ)解体され、コミタテンセス(''Comitatenses''、野戦機動軍)と呼ばれる中央軍と、河川監視軍(''Ripenses'')や辺境防衛軍(''Limitanei'')といった国境軍設置されたことが伝わる。一般的にはこの国境軍ははその名の通り各地の辺境属州の国境に常駐して国境や地域の安全を守り、野戦軍は普段は帝国の属州の都市に常駐して、敵の大規模な侵入や外征などの際には主力を担うという体制であったとされている。これは[[軍人皇帝時代]]より徐々に進められてきた政策であったが、ディオクレティアヌス時代にはこの戦略は修正され、辺境に従来の倍の兵を貼り付け国境で防衛する戦略に変わっていた。コンスタンティヌス1世は辺境の軍を分割して再び国境の国境軍と機動軍である中央軍の体制に戻したうえで明確化した。また、帝国東方の都市である[[ビュザンティオン]]に自らの名前を与えて[[コンスタンティノープル]](コンスタンティノポリス、現[[イスタンブル]])と改称し大規模な都市に改造し、[[330年]]にはこの都市の落成式が執り行われた。コンスタンティヌス1世による内政の整備、キリスト教の拡大、コンスタンティノープルの建設といった事業は、後の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の前提を作り上げた。
 
コンスタンティヌス1世は337年にニコメディア近郊の離宮で死去した。その遺体はコンスタンティノープルでキリストの12人の使徒たちに準ずる存在として棺に納められた。晩年にはキリスト教の[[洗礼]]を受け、[[正教会]]ではキリスト教徒であった母とともに「[[亜使徒]]」の称号を付与されて尊崇された。