「上杉謙信」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
75行目:
天文22年(1553年)9月、初めての上洛を果たし、[[後奈良天皇]]および[[室町幕府]]第13代将軍・[[足利義輝]]に拝謁している。京で参内して後奈良天皇に拝謁した折、御剣と天盃を下賜され、敵を討伐せよとの勅命を受けた。この上洛時に堺を遊覧し、[[高野山]]を詣で、京へ戻って[[臨済宗]][[大徳寺]]91世の[[徹岫宗九]](てつしゅうそうく)のもとに参禅して受戒し「宗心」の戒名を授けられた。
 
天文23年([[1554年]])、家臣の[[北条高広]]が武田と通じて謀反を起こしたが、天文24年(555([[1555年]])には自らが出陣して高広の居城・[[北条城]]を包囲し、これを鎮圧した([[北条城の戦い]])。高広は帰参を許される。この間、晴信は善光寺別当[[栗田鶴寿]]を味方につけ[[旭山城]]を支配下に置いた。これに対抗するため景虎は同年4月に再び信濃国へ出兵し、晴信と川中島の[[犀川 (長野県)|犀川]]を挟んで対峙した('''第二次川中島の戦い''')。また、裾花川を挟んで旭山城と相対する[[葛山城 (信濃国)|葛山城]]を築いて付城とし、旭山城の武田軍を牽制させた。景虎は、犀川の渡河を試みるなど攻勢をかけたものの、小競り合いに終始して決着はつかず。対陣5ヶ月に及び最終的に晴信が景虎に、[[駿河国]]の[[今川義元]]の仲介のもとで和睦を願い出る。武田方の旭山城を破却し武田が奪った川中島の所領をもとの領主に返すという、景虎側に有利な条件であったため、景虎は和睦を受け入れ軍を引き上げた。
 
ところが[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])3月、景虎は家臣同士の領土争いや国衆の紛争の調停で心身が疲れ果てたため、突然出家・隠居することを宣言し、同年6月には天室光育に遺書を託し(「歴代古案」)、春日山城をあとに高野山{{refnest|group="注"|なお、「歴代古案」所載の景虎遺言では[[比叡山]]に隠棲したとしている。}}に向かう{{Sfn|上杉家御年譜|1989}}。しかしその間、晴信に内通した家臣・[[大熊朝秀]]が反旗を翻す。天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した景虎は越後国へ帰国。一端越中へ退き再び越後へ侵入しようとした朝秀を打ち破る([[駒帰の戦い]])。