「織田信友」の版間の差分

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天文23年([[1554年]])、信友は[[代官|小守護代]]と呼ばれた家老の[[坂井大膳]]と図り、斯波氏の家臣の大部分が斯波義統の子の[[斯波義銀|義銀]]に従って城外に出かけた隙に義統を[[暗殺]]した。義銀は信長を頼り逃亡。義銀を擁した信長の反撃を受けた信友は[[安食の戦い]]で敗れ、家臣・河尻左馬丞、織田三位等も失う。翌天文24年([[1555年]])、生き残った坂井大膳の進言により信光の調略をするも、かえって信光の謀略にかかり、ついに大膳は[[今川氏]]に逃亡した。信友自身は主殺しの咎によって信光に殺害された。
 
これにより清洲織田氏は断絶し、信行も[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])に信長に謀殺され、岩倉織田氏(織田伊勢守家)で尾張上四郡守護代の[[織田信安]]も子の[[織田信賢|信賢]]によって居城[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]から追放、信賢も[[永禄]]2年([[1559年]])に信長に降伏して追放。信友の傀儡から信長の傀儡と化した義銀も最後には信長排除を図ったため追放され(後に信長に帰属)、尾張は信長によって名実ともに統一支配された。
 
== 関連項目 ==