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== 生涯 ==
[[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽郡]]秣陵(現在の[[江蘇省]][[南京市]][[江寧区]])の人で、[[南朝 (中国)|南朝]]の[[士大夫]]の出身。祖父の陶隆は王府参軍、父の陶貞宝[[孝昌県|孝昌]][[県令]]を務めた。幼少より極めて聡明でたちまち[[書法]]を得、万巻の書を読破した。10歳のときに[[葛洪]]の『[[神仙伝]]』に感化され道教に傾倒し、15歳にして『尋山志』を著したという。20歳の頃、[[斉 (南朝)|南斉]]の[[蕭道成|高帝]]に招聘され左衛殿中将軍を任じられると諸王の侍講(教育係)となり[[武帝 (南朝斉)|武帝]]のときまで仕えた。30歳の頃、[[陸修静]]の弟子である[[孫游岳]]に師事して[[道術]]を学び、36歳にて職を辞し[[永明]]10年(492年)、[[茅山]](南京付近の山・当時は句曲山といった)に弟子ととも[[文人#隠逸|隠遁]]した。『[[南史]]』には陶弘景が致仕したとき皇帝の肝いりで盛大な送別会が催されたことが伝えられている。
 
[[永元 (南朝斉)|永元]]元年(499年)に三層の楼閣を建て、弟子の指導をするほか、天文・暦算・医薬・地理・博物など多様な研究に打ち込んだ。また仏教に深く傾倒している。王朝が交替すると[[梁 (南朝)|梁]]の[[蕭衍|武帝]]は陶弘景の才知を頼り、[[元号]]の選定をはじめ吉凶や軍事などの重大な国政に彼の意見を取り入れた。このため武帝と頻繁に書簡を交わしたので「'''山中宰相'''」と人々に呼ばれるようになる。年を負う毎に名声が高まり王侯・貴族らの多くの名士が門弟となった。『[[文選 (書物)|文選]]』の編者として知られる[[昭明太子]]も教えを受けたひとりである。