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==== 日本 ====
1950年代の日本は雑貨、繊維製品、陶器においてデザインを盗用する業者が非常に多く、輸出品に関する悪評が問題となった。輸出振興により国内企業を育成しようとする日本政府の悩みの種で、イギリスは外交ルートを通して年に平均40件以上の苦情を申し込むだけでなく、1957年には訪英した日本の藤山愛一郎外務大臣がデザイン盗用を突きつけられる事態まで発展した。当時の通商産業省、特許庁は対応に苦慮したが解決には時間がかかった。特に繊維製品に関してイギリスは強く抗議していた。ランカシャー地方の生産者は1930年代に商標の盗用をしていた日本から被害を受けた記憶を忘れていなかった。この盗用問題は外交面においてGATT35条問題を引き起こす遠因となった。即ち、イギリス、フランス、オランダを含む14ヵ国は日本側に差別的対応をする結果になった。
 
これは一面では外国のバイヤーが要求する場合もあったのは事実(民間の市場調査、市場開拓は渡航の困難さにより不可能だった)だが、生産者にデザインに関する意識が低かったのも事実である。国としても放置は出来ない。しかし、全ての製品について「これは自己デザイン、これは盗用」と判別するのは不可能である。そこで、特に問題になっている産業では政府が財団を設置してメーカーに自分のデザインを登録して貰い輸出品のデザインの権利を明らかにする枠組みを作ることにした。言い換えると、盗用デザインは輸出できないという枠組みを立法の力を借りながら作ろうとした。また盗用は道徳の問題であり、自分からデザインを作ろうとしない他人任せの姿勢から生まれるところから、奨励機関を通じて啓発しようとした。これは消費者に優れたデザインの商品を知らしめることで、国民の意識を変え生産者を動かそうとした狙いから出発した。