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== 略歴 ==
[[1940年代]]頃から、[[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]を拠点に音楽活動を行っていたが、デビューしたのは1951年と遅咲きである。デビュー後は[[チェス・レコード|チェス]]と契約、長きに渡って同社から作品を発表していった。1952年に[[シカゴ]]に移る際、ギタリストの[[ウィリー・ジョンソン (ギタリスト)|ウィリー・ジョンソン]]がシカゴ行きを嫌ったため、後任のギタリストとして[[ヒューバート・サムリン]]が迎えられた。1954年に初めてセッションに参加して以来ウルフが亡くなるまで、サムリンは相棒として活躍し、個性的なプレイで徐々にウルフのサウンドの中で存在感を増すようになった。1959年、ウルフは初の[[レコード#レコードの諸形態|LP]]『モーニン・イン・ザ・ムーンライト』を発表し、『ハウリン・ウルフ』、『リアル・フォーク・ブルース』、『モア・リアル・フォーク・ブルース』、『ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッション』、『チェンジ・マイ・ウェイ』などのLPをチェスから発表した。1968年11月、当時の流行に乗る形でサイケデリックな問題作The Howlin' Wolf Albumをレコーディング。[[マディ・ウォーターズ]]の「Electric Mud」『[[エレクトリック・マッド]]』の続編とも言える内容だが、マディがそのコンセプトに乗り気であったのに対し、ウルフはそれを嫌いレコーディングの際に3日間家に立てこもったというエピソードも残っている。<ref>「ハウリン・ウルフ・アルバム」(ユニバーサル/チェス UICY-93213)ライナーノーツ 小出斉著</ref>あくまでも己を通したウルフの姿勢を窺わせるエピソードである。1970年代に入るとウルフは交通事故の後遺症などもあり、体調を崩し往年の勢いを失っていく。しかし、そのような状況下でも現役であり続ける。1972年にはライヴ盤「Live and Cookin' (At Alice's Revisited)」、1973年にはスタジオ盤「The Back Door Wolf」をリリースした。後者が彼のラスト・アルバムとなった。[[1976年]]、[[イリノイ州]][[ハインズ]]で亡くなる。
 
== ロックに与えた影響 ==