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最終的には輔漢将軍まで昇進し、長史を引き続いて兼務した。230年に死去した。
 
『[[三国志 (歴史書)|張裔伝]]』には「[[公羊学|公羊春秋]]を学び、広く[[史記]]・[[漢書]]を読破した」とある。また仲の良かった犍為郡の楊恭の死後、彼の家族の面倒を見たとあり「その義行は、まことに行き届いたものだった」と記述されている。楊洪とも、かつては友人であったが、楊洪が子の張郁が微罪で罰を受けた際に特段の温情をかけて赦すことはなかった、これにより彼を深く恨み友情にひびが入ったという。楊洪が留府長史の人事で張裔を天性の明察であり、過酷な任務を遂行するのに長けているため、才能は長史の職に堪えるものであるとしながらも、性格が公平ではなく、分け隔てのない性格であった[[向朗]]の下として働かせ両人を活かすのが最善であると諸葛亮に進言し、張裔が楊洪からその内容を聞くと諸葛亮は自分に長史を任せるだろうから、君にそれを止めることはできないと返したという。また司塩校尉の[[岑述]]とも不和であり恨みを抱きあったが、諸葛亮から「昔、君と陌下で対峙した際、君が敗れた後になっても私は君に用心し食の味がわからないほどだった。君が呉に抑留されていた際は寝ても寝付けないほどだった。君が呉から帰って以来、大任を委ね、同じように王室の為に励んで来た。私と君は古の金石の交わりだと思っている。それなのに私が岑述を取り立てた程度のことがどうして我慢できないのか」とたしなめの手紙を送られている(楊洪伝)。
 
== 脚注 ==