「文禄・慶長の役」の版間の差分

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== 動機に関する諸説 ==
秀吉が明の征服とそれに先立つ朝鮮征伐つまり「唐入り」を行った[[動機]]については古くから諸説が語られているが、様々な意見はどれも学者を納得させるには至っておらず<ref name="rikeko" />、これと断定し難い歴史上の謎の一つである。戦役の本編に入る前に動機に関する諸説について述べる。主なものだけで以下のようなものがある<ref group="注">編者注:「○○説」と自らの学説・主張を名乗らない学者が多く、後世の学者それぞれによって命名・分類されたため、各説の呼ばれ方には微妙に違いがある。また表記の都合で、似たような説はまとめて表記した。</ref>。
[[画像:Toyotomi Tsurumatsu.jpg|thumb|leftlright|220px|豊臣秀吉の嫡男(次男)であったが、夭折してしまった鶴松(棄丸)([[妙心寺]]所蔵)]]
[[画像:Kato Kazuenokami Kiyomasa Kneeling by a Banner LACMA M.84.31.269.jpg|220px|leftlright|thumb|『本朝智仁英勇鑑』加藤主計頭清正]]
[[画像:Navalzhugenu2.jpg|220px|leftllright|thumb|『朝鮮戦役海戦図屏風』昭和16年前後/太田天洋(明治17-昭和21)]]
[[画像:Namban-13.jpg|220px|leftlright|thumb|[[狩野内膳]]の『南蛮屏風』]]
[[画像:Jesuit with Japanese nobleman circa 1600.jpg|thumb|220px|leftlright|イエズス会員と日本人]]
;鶴松死亡説(鬱憤説)
[[1591年]](天正19年)正月、[[#準備|征明の遠征準備]]を始めさせた秀吉であったが、その直後(日付の上では2日後)に弟である[[豊臣秀長]]が病死するという不幸があり、さらに8月には[[豊臣鶴松]]の死という大きな悲しみに遭遇した。秀吉は相次ぐ不幸に悲嘆に暮れたが、その極みに至って、却って自らの出陣と明国を隠居の地とする決意を新たにしたと、秀吉の同時代人[[近衛信尹]]は『三藐院記』で書いている<ref>{{Harvnb|中村|1935|loc=pp.389-392}}{{Quote|「・・・つらつら思に、今此世間に望みなし、さりとて山林竹裏の住居も、却って天下亂逆の基たれば、大明國を隠居の活命と思召定め・・・」|三藐院記|近衛信尹}}</ref>。征明の決意を公に表明したのは愛息の死の直後であった。[[林羅山]]はこれを受けて『豊臣秀吉譜』において「愛児鶴松を喪ったその憂さ晴らしで出兵した」という説を書き<ref>{{Cite web