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みな0101 (会話 | 投稿記録)
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[[ファイル:Wang Hsichih.jpg|thumb|right|160px|王羲之]]
'''王 羲之'''(おう ぎし、{{ピン音|Wáng Xīzhī}}、[[303年]] - [[361年]]<ref>王羲之の生没年には、[[303年]] - [[361年]](『[[中国の書論#東観余論|東観余論]]』の説)、[[306年]] - [[364年]]、[[321年]] - [[379年]]、[[303年]] - [[379年]]([[:zh:姜亮夫|姜亮夫]]の説)、[[307年]] - [[365年]]([[清]]の[[魯一同]](ろ いつどう、1804年? - 1863年)の説)など諸説あるが、303年 - 361年が比較的信頼性があるとされている(比田井南谷 P.108、飯島春敬 P.56)。</ref>)は、[[中国]][[東晋]]の[[政治家]]・[[書家]]。[[字]]は'''逸少'''。[[前後左右将軍|右軍将軍]]となったことから世に'''王右軍'''とも呼ばれている。[[本貫]]は[[琅邪郡]][[臨沂県]](現在の[[山東省]][[臨沂市]][[蘭山区]])。[[魏晋南北朝時代]]を代表する[[門閥貴族]]、[[王氏#琅邪王氏|琅邪王氏]]の出身である。
 
[[曾祖父]]は王覧([[王祥]]の弟)、[[祖父]]は王正、[[父]]は王曠(東晋の淮南郡太守)。子に王玄之(長男)、[[中国の書家一覧#王凝之|王凝之]](次男)、王渙之(三男)、王粛之(四男)、[[中国の書家一覧#王徽之|王徽之]](五男)、王操之(六男)、[[王献之]](七男)がいる。[[子孫]]に王楨之(徽之の子)、[[智永]]らがいる<ref>比田井南谷 P.110</ref>。