「天明の大火」の版間の差分

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[[光格天皇]]は御所が再建されるまでの3年間、[[聖護院]]を[[行宮]](仮御所)とし、[[恭礼門院]]は[[妙法院]]、[[後桜町天皇|後桜町上皇]]は[[青蓮院]]([[青蓮院|粟田御所]])にそれぞれ移った。後桜町院の生母青綺門院の仮御所となった[[知恩院]]と青蓮院の間に、幕府が廊下を設けて通行の便を図っている。
 
この大火に[[江戸幕府]]も衝撃を受け、急遽[[老中]]で幕閣の中心人物であった[[松平定信]]を京都に派遣して[[朝廷]]と善後策を協議した。また、この直後に[[裏松固禅]]の『[[大内裏図考證]]』が完成し、その研究に基づいて焼失した内裏の再建は古式に則った御所が再建さ形式で行われることるが、った。再建の費用は幕府から出資された。これは幕府の慢性的な財政難と[[天明の大飢饉]]における民衆の苦しみを理由にかつてのような古式に則った壮麗な御所は建てられることはできないとする松平定信の反対論を押し切ったものであり、憤慨した定信は[[京都所司代]]や[[京都町奉行]]に対して朝廷の新規の要求には応じてはならないと指示している([[東京大学史料編纂所]]所蔵「御所々御入用筋書抜」四及び松平定信『[[宇下人言]]』)<ref>藤田覚『近代政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年) ISBN 978-4-642-03353-4 第四章「寛政内裏造営をめぐる朝幕関係」</ref>。またこれにより「幕府」に対する「朝廷の動向が世間の注目を集めるようになり、さらに「[[尊号一件]]などの幕府と朝廷間の紛争の遠因となった。
 
== 出典 ==