「原田信種」の版間の差分

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実父は[[肥前国|肥前]][[松浦郡|松浦]]の[[草野鎮永 (中務大輔)|草野鎮永]]<ref>原田了栄の次男で、[[草野永久]]の養子となって肥前草野氏を継いだ。別名は種吉、宗久(家久)。道号は宗揚。同時期の人物で、転封を拒否して秀吉に処刑された[[草野鎮永 (長門守)|草野鎮永]](長門守、別名は家清)は筑後草野氏(草野宗家)の当主で、同名の別人。</ref>(宗揚)。[[国衆]]である肥前草野氏は[[龍造寺氏]]に従属したため、永禄11年([[1568年]])頃より五郎は人質として佐賀に入った。
 
宗揚の兄・[[原田種門|種門]]が惣領であったが讒言によって謀殺され、弟の[[原田親種|親種]]が継いだものの[[天正]]2年([[1574年]])に[[大友義鎮|大友宗麟]]に臼杵氏との抗争を責められ自害したことから、その嫡子[[原田秀種|秀種]]もすでに戦死していたため、[[原田隆種|原田了栄]](隆種)は、草野家に出ていた次男の子、つまり孫を養嗣子として迎えた。五郎は原田姓に戻り、宗家の跡を継ぐことになった。同年、元服の際には[[龍造寺隆信]]より[[偏諱]]の授与を受けて'''信種'''と名乗り、同8年([[1580年]])には隆信の娘(実際には養女か)を妻として娶った。
 
天正10年([[1582年]])、信種は龍造寺氏の配下として[[飯盛城 (肥前国)|飯盛城]]を拠点にして筑前西部の[[早良郡]]に勢力を伸ばしていたが、さらに[[筑紫広門]]と協力して[[那珂郡 (福岡県)|那珂郡]]に侵入して砦を築き、兵300を入れて重臣・笠大炊介(りゅう おおいのすけ)を守将とした。同郡で大友方は[[山田純規]]が守る[[猫嶺城]](猫峠城)だけであり、[[立花道雪]]は養子[[立花宗茂|統虎]]を将として[[薦野増時]]や[[由布惟明]](大炊)、[[小野鎮幸]]らを付けて、同城を守るために砦を攻撃させた。4月16日朝、[[那珂川 (九州)|那珂川]]を渡った立花勢1,000名は二手に分かれて砦を強襲し、原田勢の防戦を撃破して砦を焼いた。笠大炊介らは早良郡に退却した<ref>{{Harvnb|吉永|1977|loc=pp.175-177}}</ref>。(岩戸合戦)