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「王朗 (後趙)」の版間の差分
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2018年10月21日 (日) 04:49時点における版
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アルカセット
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2019年4月24日 (水) 03:06時点における版
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22行目:
その後、王朗は[[前秦]]に投降し、青州刺史に任じられた。
[[356年]]2月、東晋の将軍[[劉度 (東晋)|劉度]]は
[[長清区|
盧
氏
]]
へ侵攻し、王朗<ref>晋書では袁朗と記され、王朗とは別人という事になっている</ref>を攻めた。前秦君主[[苻生]]は[[苻飛]]を派遣して迎撃させたが、苻飛が到達する前に劉度は撤退した。その後の王朗の動向は不明である。
== 参考文献 ==