「閼与の戦い」の版間の差分

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紀元前269年、秦は[[韓 (戦国)|韓]]を討とうとして、[[胡傷|公孫胡昜]]に軍を率いさせて、閼与(現在の[[山西省]][[晋中市]][[和順県]])に布陣した。趙王は[[廉頗]]や[[楽乗]]に韓を救援してやるべきかと質問したが両者とも「道が険しくて難しい」と言った<ref>史記</ref>。王は[[趙奢]]を呼んで訪ねた。趙奢は「道は険しいが、例えて言えば二匹のネズミが穴の中で戦うようなもの。将の勇敢なほうが勝つでしょう」と言った。趙王は趙奢を指揮官として救援に向かわせた。
 
趙奢は[[邯鄲]]から30里の地に塁壁を築いて進軍を止めた<ref>史記</ref>。秦軍は[[武安県|武安]]の西に陣を敷いて趙軍を待ち構えた。ある日、趙軍の陣にスパイ間者が入り込んだが、趙奢はスパイ間者をもてなして帰してやった。趙軍は塁壁を築いていて進軍を止めている、というスパイ間者の報告を聞いた秦の将軍は大いに喜んだ。趙奢はスパイ間者を帰らせた後、軍勢を急行させ、閼与から五十里離れた所に陣地を築いた。これを聞いた秦軍は全兵力を趙軍に向けてきた。趙奢は[[許歴]]の意見を聞き入れ、厚い陣形をしいて、1万人を北の山上に登らせた。秦軍は遅れてやってきて、山を奪取しようとしたが登ることができなかった。趙奢は待機していた軍勢を繰り出して秦軍を大破した。
 
秦軍に勝利した趙奢は趙王から馬服君の称号を賜わり、許歴は国尉の称号を得た。